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「不登校支援」団体等に対する調査依頼について思うこと

▼現在、不登校支援を行う全国のフリースクールの諸団体がどんな状況に置かれているかを知ってか知らずか、引きも切らず(と言えば大袈裟か?)様々な調査機関や大学の研究室、中には大学院生の研究調査や大学生の卒論のための協力依頼等の文書が郵送で届く。
 大抵「締め切りは〇〇」とある。文科省下の研究機関が公費を投入して行っている調査も目に付く。悪意に捉えれば、「ホラ、我が研究機関がわざわざ税金で行う有り難い調査依頼だから、心して記入し提出するのだぞ」と言わんばかりのバイアスのかかった臭いを感じ取ることもある。

▼だが、幾ら誠意をもって記入したところで、不登校支援に対する何らかの具体的な反応があるわけではない。その上、現場の人間からすると「何のための調査研究なの?」と首を傾けたくなるような方向違いの質問事項がないわけでもない。つまり、不登校になった本人だけでなく現場で不登校支援に携わっている人間の視点からしても問題の多い不登校理解だったりするのだ。
 今や不登校に対する社会的認知(不登校支援ではない)はかなり広まり、調査研究機関だけでなく、臨床心理士によるカウンセリング的な側面から、あるいは心療内科や精神科という医学的側面からの考察も盛んになっているが、不登校に対する基本的認識は以前とさほど変わっていないように見えなくもない。

▼1995年、私たちは『二コラ』という不登校の子どものいる現場から問題を考えることをモットーとする月刊教育雑誌を立ち上げ(「日本で初めての不登校専門誌」という評価を頂いた)た。そして、その雑誌を媒体として、関東という地から民間団体(当初から10の団体が集まった)による不登校支援の全面的な展開を始めたのである。秋と春の年2回、東京と埼玉での不登校支援のための相談会や実践報告会も開いてきた。
 その雑誌に掲載された「埼玉教育センターの取材記事」でも明らかなになっていることだが、不登校の子どもたちは当時すでに8万人の大台になっていた。だが、不登校の子どもたちの多くは「情緒障害」等の問題を抱えており、学校側自体にはほとんど問題はないと考えられていた。「不登校になる子が問題なのだ」と。
 確かに長期間学校を休めば、それまで成績の良かった子でも劇落ちする。それが証拠と言うわけだ。だが、それは学校側の印象論に過ぎない。

▼子どもが通っていた学校やクラスがそうであるから、大学や教員養成のための教育学部などでは、まだ研究の端緒に付いたばかりで、まともな研究論文もまだない状態だった。そういう基本研究のために私たちが子どもたちと接する中で積み上げてきた元データを無償で貸し出したりもした。そういう過程を経て今の大学等での研究もあるとも言える。
 データ使用の問い合わせがあった幾つもの研究機関には基本的に出展を明らかにさえすれば著作権フリーということで自由な使用許可を与えた。だが、今でもネット検索してみるだけでたぶん無断による二次三次等の使用ではないかというものも見られるが、原則固いことは言わない。もう「過去の共有財産」でいいだろうと。

▼問題は全く別のところにある。地道な不登校の研究調査が進み、それが不登校の子どもたちの具体的支援に繋がれば何も言うことはない。だが、実際はどうか。私たちは営利企業的側面から考えて最もビジネスになる高校生支援事業ではなく、火中の栗を拾うように敢えて実益のあがらない義務教育段階の子どもたち支援の事業に身を投じた.。それは「不登校」は「不“登校”」であり、「近代学校教育からの逃走」という側面、教育問題の「炭鉱のカナリヤ」的色彩を色濃く持っていたからである。「不登校」は近代学校教育の危機の体現に他ならない。しかも「義務教育は無償」が世界の趨勢でありながら、日本の不登校の子どもたちは単に学校に行かないということだけで、完全に「教育棄民」の状態に放置されてしまうのだ。

▼私たちは現在、埼玉県教育委員会と協働する形で「保護者や教員のための不登校セミナー」を夏と秋の年2回開催しているが、そこに登場する講師の方々は「子どもたちは生きるためのぎりぎりの選択として不登校を選択している」とか「不登校の子どもたちは目に見えない無数の傷を負っている」とか、その職業的立場上ぎりぎりの提示を行っているのが見える。
 残念ながら、文科省関連の調査研究の依頼にはそういうものが見えない。多忙な時間を割いて対応はしているが、日々現場で不登校の子どもたちと接する者として、そこに不登校の子どもたちの希望を託すわけにはいかないのだ。

▼そういえば、ある経験豊かな精神科医の書物に、大人の精神科の患者に子どものADHD等の発達障害の薬を服用させたところ劇的な効果があったという研究があった。もしかすると、精神病の患者というのはそういう発達障害の先の姿かも知れないのだ。「不登校」と定義され(不登校は病気じゃないというが…)、心療内科や精神科で「発達障害」と病名を付けられた人たちのうちで、どのくらいが「引きこもり」等に移行しているのだろうか?
 「もしかして…」とその医師は言う「精神病という病気はないのかも知れない」と。

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不登校セミナーの相談ブースで語ったこと

▼10月13日(土)の「保護者や教員のための不登校セミナー」第2部の午後のフリースクール担当の教育相談(不登校相談)ブースのある6Fのフロアーに相談に来られた保護者の数は昨年度よりは明らかに多かった。保護者の間でも徒に子どもに学校復帰を促すよりは、それ以外の選択肢も検討してみよう…そういう静かな変化が起きているのかなという印象も持った(1Fの教育委員会のブースへの相談者の様子を聞かなければ断定的なことは言えないが)。

▼相談に訪れたのは、ほとんどはその親御さん。母親だけでなく夫婦で来られる割合が高いのは近年の特徴だ。不登校になって苦しんでいるのは当人には違いないが、時として保護者の方が当人以上に戸惑い動揺している
 保護者として自分の子育ての責任を問われていると思い込む人は多い。だから、変な話だが、WISC-Ⅳ等の検査で子どものIQの数値が分かったり、生得的な発達障害らしいデータが出されたりすると、必ずしも自分の子育てのせいではないのだと逆に安心される方も中にはいる。
 これだけを見ても、不登校となった子どもの話だけに焦点を合わせればいいという単純な話ではないし、従来的な子育て論で一方的に親の育児法を俎上に載せればいいということにもならない。

▼そこで、個別な事例についてはそれに即応した応答や示唆を行ったが、全体的な「親の気付き、大人の気付き」に関連することにおいては、ある一定の物の見方・考え方を提示した。
 一つは、義務教育制度が日本だけでなくどの国においても無償で行われていることの意味についての説明。その義務教育によってその国を再生産させる人づくりが行われていること。だから、「義務教育は学問以前の人としての基礎基本、人づくりの土台づくりの営み」であること。将来その人がより研鑽を積み、高い建物を建てることもそれによって可能になると。
 なのに実際には、先進国の仲間と言いながら、日本の場合、不登校となって学校を離れた子どもには国の教育公費の一切の支援はなくなり、教育棄民の状態に放置され、経済難民の予備軍さえ生み出す状態にあると

▼具体的に、すぐできる方法として提示したのは、既にこのブログでも紹介している二つのもの。「究極の不登校、アインシュタイン」「人生に迷った時の言葉」の二つ。
 その意味については、大体このように説明した。
 ・不登校になれば、自分を不登校に追い込んだ原因や環境、言い換えれば「風景」を変えたいと思う。でも、幾らそう願っても自分を取り巻く風景は変わらない。では、どうするか?相手を変えようとするのではなく自分で動くことだ。自分を取り巻く風景を変えたければ自ら行動することだ。そうすれば、あれほど変わることを願っても変わらなかった風景は嘘のようにあっけなく変わる。「猫に鈴を!」と願っても誰も鈴をつける行動をしなければ事態は変わらない。自転車に乗りたければ、自らトレーニングして体得することだと。
 ・しかし、物には幾ら自分が願っても、自分が行動しても容易に変わらぬ場合もある。そこに厳然と「あるという事実」は変えようがない。事実は事実だ。しかし、物には見方、捉え方というものがある。たとえば、このペットボトル。水が半分入っている。これをどう見るか。「なんだ、半分しか入ってないじゃないか」と見るか「すげえ、まだ半分も水が残っている」」と見るか。水が半分という事実は変わらないが、見方を変えることで今後の姿勢、向き合い方が変わって来る。そして、物事は自分の思ったように動いていくもの
 そのために考えるヒントとして、来訪者にはお渡しした。

▼どんな相談にのろうと、こちらは相談者が考え行動するための手掛かりしか提示できない。行動に誘うことはできるが「行動するのは自分自身」である。これは、どのような場合でも同じこと。不登校の子どもについても言えること。親御さんはその子の代わりになることはできないし、そうすることが本人のためになることは何もないのだと。その子の出来る度合いに応じてその子に行動を促すしかないのだと。
 たとえば、学校を離れてフリースクールにやって来る子の中に、「指示待ち人間」がやたらと多い。学校でつくられた「いい生徒像」だろうか。そして、極端に「失敗を恐れる」。こういう子どもほど学校の中で「期待される人間像」を演じ、逆に自分の中身は空になるのかもしれない。
 ぱいでぃあでは、そういう子ども像を一つずつ壊すことから始める。「“トイレに行くな!”と言えばどうする?」と問い、「少なくとも生理的行動は自分で判断しその旨告げて自分で行動すればいい」とか「どんどん失敗しろ、失敗を恐れるな、失敗から学べ」とけしかける。一方で薄皮一枚一枚剥がすような慎重な対応もまた欠かせない。そこはその子の不登校の事情によってまるで違ってくる。単に「臨床心理士の資格を取りました」レベルで済む事柄ではない。
 実際に、そういう子が通い始めた場合には、「一人ひとり顔も違い、声も違い、背丈も違うように、外側からは見えない心もまた違う」ことを十分に認識しながら、こちらもその子の個性と真摯に真っさらの状態で向き合うことから始めることになる。そんなことを自分の場合は話した。

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秋の「不登校セミナー」の講演から思ったこと

▼近年、埼玉県教育委員会と不登校児童生徒支援の官民連携会議との間で進められてきた「保護者や教員のための不登校セミナー」の第2回が、さいたま市民会館うらわにおいて開催された。 午前の部は埼玉大学教育学部教授・馬場久志氏による講演「不登校についてともに考える」、午後の部は各フロアー各ブースに於いてフリースクール、不登校支援の高等学校やサポート校、技能連携校など、親の会、不登校からでも進学が可能な県立高校などによる個別相談会・情報提供が行われた。

▼不登校の捉え方については、教育行政側と民間側とでは立場上かなりの開きがある。当然、問題の捉え方の違いもある。
 そういう中で、馬場教授の講演は行われたが、それは今までいろいろな人たちがテーマとしてきた現場での関わり方に無原則に立つものでも、また一方的に教育行政側の立場に忖度するものでもなかった。不登校が日本の社会で大きな問題として取り上げられるようになったその過程やその対応の仕方を教育学的な視点から振り返り、今に至る親や教師等の教育関係者に今まで持続してきた固定的な価値観や物の見方に再考を迫り、等しく気づきを促するものであったと言える。
 つまりは、今日の社会の歪みや大人の教育観の歪みなど、ともすると我々が子どものために「よかれ」とやって来た様々な方策に対し、それを評価する一方、「でも、子どもたちは~」と子どもの視点から逆照射するものでもあったと言える。だから、不登校論そのものは極めてオーソドックスなものではあったが、次の行動へと大人を促す説得力を持つものであったと言えようか。

▼不登校に対する最近の動向として、教育行政が「学校復帰」を促すことへの疑問、不登校の子どもを「病気」と決め付けないこと(一方には「発達障害」の増加、親や教育関係者が医療に依存しがちな傾向もあるのだが)、過去の功罪を含めて民間教育の取り組みを積極的に評価する等さまざまあるが、馬場教授は講演の中で、不登校の始まりは「子どもにとっては最後の意思表示である」こと、「学校復帰だけが不登校の解決ではない」こと、「民間からの協力を得る」ことの必要性、子どもが「安心して生きる権利」を主張できる「自由な時間・空間を保証する」ことの大切さ等を説き、フリースクールなど「学校外の学び場」の役割を説いた意義は大きかろうと思う。馬場教授が言うように、「徐々に、本当に少しずつ」の変化ではあるが、不登校(「不登校は問題行動ではない」!)への見方が確実に変化しつつあることを確認した講演でもあった。

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究極の不登校、アインシュタインの言葉から

🔶ご存知、理論物理学の超有名人、アルベルト・アインシュタイン。でも、彼が「特殊相対性理論」「一般相対性理論」等の研究でノーベル賞を取ったこと以外、どんな人だったかは意外に詳しくは知られていません。  彼もまた「学校嫌い」の「不登校生」であったことも。いやいや、彼が不登校生であったことと後年彼がノーベル賞を受賞する偉大な業績を残したこととは無関係ではないでしょう。 そんな彼の珠玉の名言の幾つかを紹介します(一部編集)。


〇想像力は知識よりも重要である。

〇私の精神と物質的生活は、他者の労働の上に成り立っている。

〇常識とは18歳までの偏見のコレクションである。

〇調べられるものをいちいち覚える必要などない。

〇学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、

 それこそが教育だ。

〇人間として真の偉大さに至る道は、一つしかない。

 それは何度もひどい目にあうという試練の道である。

〇人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。

 普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。

〇私は未来のことは考えない。あっという間にやってくるからだ。

〇私は未来のことを考えない。

 たった今決めて行動したことや、

 たった今の幸せを感じることの方が未来をよくする。

 未来は今がつくるのです。

〇一度失敗したら、なぜ失敗したかを考えて、新しい取り組みを考えよう。

〇人生にはたった二つの生き方があるだけだ。

 一つは奇跡などないかのような生き方、

 もう一つは、まるですべてが奇跡であるかのような生き方だ。

〇何かを学ぶためには、自分で体験する以外にいい方法はない。

〇人生とは自転車のようなものだ。

 倒れないようにするためには、走らなければならない。

〇人間性に絶望してはいけません。なぜなら私達は人間なのですから。

〇人の価値とは、その人が得たものではなくその人が与えたもので測られる。

〇私の成功の秘訣が一つだけある、とすれば、それはずっと子どものままでいたことです。

〇他人のために尽くす人生こそ、価値ある人生だ。

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子どもたちを福島にボランティアに連れて行くということ

子どもたちを福島にボランティアに連れて行くということ

▼福島第一原発事故から5年の歳月が流れて
福島第一原発事故から既に5年の歳月が流れた。その引き金ともなった東日本大震災による未曾有のに被害については誰一人同情せぬものはないし支援に駆けつけた人も多い。しかし、東電の福島第一の原発事故については二の足を踏む人が多い。チェルノブイリ原発事故級(それを上回るとも)と言われる原発事故による放射能被害を心配するからである。

▼放射能被害に対する様々な受け止め方
原発事故から5年、その事実は変わらないがその受け止め方は様々だ。この間の子どもたちの甲状腺ガンの発症率の上昇も無視できない。家族ともども住み慣れた地域を離れた人達も多い。一方では未だに仮設住宅住まいの人達もいる。再び元の状態に戻ることは不可能かもしれないとも囁かれる。全く想定外(?)の原発事故によって、生活、文化、社会の全てが一瞬にして崩れ去ったかのようである。

▼ほとんどは「風評被害」で安心安全という考え方
だが、一方でそれらはほとんど「風評被害」であり、今回の事故はそんなに恐れる必要はないのだという意見も根強い。全てではないが政府が「安心・安全」と言っているではないかという声もある。そこには産業があり、生活があるのだ。いたずらに警戒心を煽る人達が絶えないが、農業も漁業も、危険なものを取り除けば大丈夫なのだと。多くの地域では積極的に除染が行われ、現に地域の子どもたちは毎日元気に学校に通って勉強しているではないかと。県外の人達からも「食べて応援」でたくさんの支援の声もある。何を怖がるのかと。

▼福島の地に子どもたちをボランティアにやること
さて、そういう中、福島の子どもたちを励ますために、子どもたちを他県に迎え入れる活動もある。福島に出向いて行う文化的な慰問の活動もある。逆に、大人だけでなく子どもたちにも、春や夏の休暇を利用してボランティアの活動を行うところもある。小中学校では修学旅行先に福島県を選ぶ学校さえある。確かに、地域の繋がりが希薄になり、支援を求めるたくさんの人達がいる以上、そこに出向いて無償の善意を施すことは、行う方にも受ける方にも意義のある活動に違いない。

▼子どもたちを福島に連れて行く支援団体の思い
ともすると我利我利の自己中にハマりやすい今の学校教育において、それは一つの大事な視点かも知れない。特に、学校を放れた不登校の子どもたちのために、コミュニケーション能力の向上のために役立てよう、と考えるところが出てきてもおかしくはない。事実、毎年のようにそういうフリースクール等の子どもの支援団体などが、小旅行を兼ねて数日現地に趣き、ボランティア活動を行うところが多くなった昨今である。
きっとそういう団体は主催者がそのような活動に前向きの気持ちがあり、そこに子どもを預けている親御さんたちもそれに賛同する方たちなのだろうと推察している。

▼子どもたちを未知の危険のある福島にはやらない
しかし、自分もフリースクールを主催しているが、そういう活動には自分自身でも躊躇するし、お預かりしているお子さんや親御さんにもそれを強要することはできないと思っている。「政府が安全と言っているのだから…」とか「福島の子どもたちもそこで生活している。数日のことなのだから…」という考えで不登校の子どもたちの福島でのボランティア体験に前向きな人達もいるだろう。それでも、「自分たちのフリースクールは福島にボランティアに行くことを想定していない」と言うつもりだし、それを聞いて安心できる人達に来てほしいと思っている。

▼ボランティアの大事さと放射能の特殊性
「本はどこにでも開いている」し、ボランティア活動は大事だと思うが、何も敢えて危険な福島を舞台に選ばなくてもいいと思っている。自分たちは、子どもたちと関われる短い期間のうちに子どもたちに自信を取り戻し立ち直ってもらいたいと思っているが、放射能の影響に関しては未知の部分が多く、なるべくならば被害を最小限に留める形で子どもたちを応援したい。自分たちの手を放れた後のことについては、残念ながら「放射能に関してだけは」責任が持てないのである。

▼未知のことだからこそ命の危険を恐れる
それが本当に風評被害であれば、誰も仕事や生活を投げ出してまでも福島から逃れまい。「原発さえなければ!」と死ぬ人もなかっただろう。未知だからと根拠もなく恐れるのは愚かである。だが、未知だからと根拠もなく安全と過信するのもまた愚かである。人の命は代わることができない。自分の命を人任せにすることもできない。それは本当に風評被害なのか、確かなデータに基づく確信なのか、自分の納得の行く形で見極めたい。

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「保護者や教員のための不登校セミナー」2016年度第1回の開催

「保護者や教員のための不登校セミナー」2016年度第1回の開催

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▼毎年恒例となっている「保護者や教員のための不登校セミナー」2016年度第1回(主催:埼玉県教育委員会、協力:不登校児童生徒支援のための官民連携会議)が、7月23日(土)13時00分(開演)さいたま市民会館うらわを会場に開催されます。対象となる児童生徒、保護者、教員等の方々の多数の参加を期待しています。

▼プログラムは以下の3部構成
【第一部】パネルディスカッション「不登校を振り返って、今思う」
川崎市のNPO法人「フリースペースたまりば」の理事長・西野博之氏をコーディネーターに迎え、不登校経験者や保護者がそれぞれの立場から語り合います。
【第二部】講演「親が手に入れたい、まなざし」
第一部のコーディネーターの西野博之氏による講演。来場者の方々の心に響く講演となろうかと思います。
【第三部】情報提供
どこで、どのような情報や支援が受けられるか、不登校経験者や保護者の人達とも接触・交流を持ちたいととういうご要望に応えます。県内の親の会、フリースクール、サポート校、技能連携校、広域通信制高校、パレットスクール等々の資料等、教育行政での取組等が紹介されます。

▼毎年、NPO法人教育ネットワーク・ニコラ(フリースクール・ぱいでぃあ)は官民連携会議のメンバーとして関わりながら、パネラーとなる不登校経験者や保護者の方を推薦させていただいています。今回は不登校のお子さんを持ち、現在は学校に復帰されている親御さんが保護者からの話し手としてパネリストに参加しています。
一度は全く行けなくなってしまった子どもがどのようにして立ち直り、学校に復帰することができるようになったか、子どもが不登校を選択した問題点、悩み、立ち直りの転換点やその決め手…などを含めて話していただけるかと期待しています。

▼全国的にも、官民連携会議という形で教育委員会や教育行政と民間の教育団体や親の会等が一堂に会して話し合い、全ての人達に開かれた「不登校セミナー」という形で相談会や講演会を開くというのは珍しいようです。それぞれの立場の思惑というのはあるでしょうが、何よりも不登校の子ども達の将来を見据えた支援を再優先して協力し合うというのが趣旨です。学校や教育委員会の面子、保護者のエゴを肯定するために行うセミナーではありません。不登校になったからと言って決して見捨てることはないし、諦めないで自分の道を見出していってほしいという願います。県内の小中学校はもとより、県内のあらゆる官民の教育団体や教育施設、教育関係者や保護者に呼びかけて開催します。

※第一回目の7月23日は市民会館うらわのホールを半日貸し切り、第二回目の10月15日(土)はホールを含め全日全館貸し切りとなります。(第二回目の案内は後日致します)

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部活動の今昔を考える:部活動は誰のため?

学校を逃れてくる子どもたち、いわゆる「不登校」の子どもたちの中には、「部活動が原因で…」という場合がかなり多い。不登校全体の割合の中で、特に中学生の不登校の原因となる割合の中では絶えずある一定の割合を占めている。

それは単に「運動が苦手」という生徒(これの放置も問題だが)だけの問題ではない。運動が得意で大好きという生徒の中にも見られる。

一方に、ホーキンス博士( イギリス理論物理学者筋萎縮性側索硬化症を患う )のように身体に問題を抱えている生徒の評価は日本の教育ではどうなるのかという問題があるが、他方では、部活のレギュラーやホープと目されたことで、逆に生徒方がその後の身の処し方等で悩む場合もある。それまでの比較的安定した生活がそれで崩されることも出てくる。
また、生徒が特別なことは望まないのに指導者のキャリアアップに利用されることも多々あるようだ。優れた指導者=生徒にとって望ましい指導者とは、必ずしも行かないようだ。

何が一番問題なのかと言えば、文科省も認めているように、生徒が「部活漬け」になることで他の活動が殆どできなくなってしまうことである。
・部活の中で「スポーツ馬鹿」が出来上がる。
・勉強も家族との交流もそれ以外の活動も、全部することが難しくなる。
将来のある生徒が、部活漬けになることで先の展望が閉ざされるようなことがあってはなるまい。

そのようなことを、この内田良准教授記事ではコンパクトにまとめている。興味のある方はご覧を。 http://rdsig.yahoo.co.jp/_ylt=A2RAqWvo95FW0QgA.w0y4TMj/RV=2/RE=1452493160/RH=cmRzaWcueWFob28uY28uanA-/RB=kII6UeLSEIA5CocXhdOYi2rYzOg-/RU=aHR0cDovL2J5bGluZXMubmV3cy55YWhvby5jby5qcC9yeW91Y2hpZGEvMjAxNjAxMTAtMDAwNTMyNzQvAA–/RK=0/RS=N6eUSv6NdI4tHd1Vwh9zqm7AJM8- 

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◆ 不登校は、なぜ生まれるの? なぜなくならないの?ー(1) ◆

 不登校は、なぜ生まれるの? なぜなくならないの?ー(1) 

▼学校で不登校にならないように、今では就学時検診と言うのもが広く行われています。
 だから、少なくとも身体的なことはクリアーできていたはず。それなのに我が子は不登校になってしまった!……そんな思いはありませんか。

 「理不尽です。納得がいきません!」

 そういう親御さん、結構多いのでは?
 

 そこで、不登校が生まれる<学校という教育システム>について、ちょっと考えてみましょう。

▼不登校は、子どもに起因するものもありますが、<日本の学校制度>に起因するものも多いのです。

 就学時検診では問題がなくても、その後に障害児的な症状を発症する場合もあります。

 身体に不具合が起きた…、自閉傾向など精神状態が悪化した…、学業などで適応が困難になってきた……などなど。

 でも、その場合にも、必ずしも本人のせいには出来ないいろいろなことがあります。

 その中でも、身体的なもの、知的障害的なものに関しては、教育行政機関の側でも多少対応が進んできたように思います。

 でも、そこに親御さんが不満を持たれるとすれば、それは

 我が子が人間らしく扱われていない!

 ということになることがあるかもしれません、

▼学校という教育機関に限らず、たとえば養護施設、特別学級、病院、少年院、刑務所、精神病院、孤児施設…などの公的な機関やそれに類する機関…。

 そこでは、その中に収容される人たちはみな、何らかの意味で「完全な指導者」に対する「不完全者・未熟者」という構図になっており、そこでは<普通>という名の健全な状態に戻ることが課題とされます。

 単純化すれば「完全なる人が不完全なる者を矯正する」ための収容所という図式です。

▼それに対して、本来フリースクールという民間の教育機関は、まだ日本に近代学校制度が存在する明治期よりも前の、江戸期に隆盛を極めた個人の育成を目的とする寺子屋にそのルーツを遡るものです。

 そして現在は、文科省の許認可に関係なく、不登校の子ども達の重要な支援の場となっています。

 ところが、不登校支援を本来の目的とする日本の民間の教育機関と称される、たとえばフリースクールやサポート校など今、ほとんど当初のそのような目的から離れてしまっています。

 その大部分は今、障害や疾患が強く、そういうサポートが欠かせない子どもたちを対象にした厚生福利施設として活動しています。
 不登校支援という当初の目的はサブタイトル的な運営となっています。
 なぜそうなってしまったのでしょうか?

 日本の教育制度を見れば一目瞭然です。

▼文科省認可の公立学校や私立学校には税金や助成金が投入されます。民間の教育機関には1円も投入されません。
 しかし、フリースクールの側は学校を離れた子ども達を独自の視点から支援するために、文科省に一元管理されないそういう条件を敢えて良しとして来たのです。

 そのため、不登校支援の日本のフリースクールやサポート校のほとんどは、その生き残り策として、厚生労働省管轄下の障害児支援事業を行うことを主とするようになりました。
 不登校支援が主たる目的ではなく、不登校ビジネスが主となったわけです。

▼そうなると、奇妙な逆転が起こります。「不登校は早期に立ち直らせるものではなく、いつまでも続いてほしい状態」になるわけです。今、不登校支援の仕事はそういう難しい場面にあります。
 利用者の慎重な見極めが求められるところです。

 「不登校はなぜ起きる?」…この問い掛けは、「不登校はなぜ義務教育で起きるの?不登校になるのは何が問題なの?」と言い換えてもいいかも知れません。
 これは「義務教育なのに学校を離れると何の教育的恩恵も受けられなくなる」とこと連動しています。

(続く)


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13歳の自閉症の少年がTEDでスピーチ IQはアインシュタイン超え

学ぶことをやめろ— 13歳の自閉症の天才少年がTEDで語る
この刺激的で挑発的な言葉を学校を離れた全ての不登校の子ども達に贈りたい

▼まず、この<アインシュタイン以上のIQを持つ、自閉症の少年のスピーチ「大切なのは学びじゃない」>という記事に目を通していただきたい。そして、その後のビデオを見てほしい。13歳の自閉症(autism)の少年ジャコブ・ベネット(Jacob Banett)が有名なTed Conferenceで語っている。「なぜ彼がそんな大舞台に?」と思うかも知れない。そこは誰でもが立てる場所ではない。世で脚光を浴び他に類のない個性を持った、言わば天才が立つ場所だからである。

▼彼はどんな天才なのか。彼は3歳の時、自閉症と診断され、フィンガーペイントとか絵本を読むこととかの、幼少時の年令で当然と考えられた様々な学びや活動が出来ず、普通の人間として育つための学びが出来ないと判断され、特殊クラスに入れられた。そこでは普通の教育がなく学ばくてもすんだ。その結果彼は学校で「学ぶ」ことから解放され、ケプラーの法則とか、光と影とか(後の天体物理学や高度な数学などに繋がる)を誰にも邪魔されず「考える」ことができたのである。まさか靴紐も結べない自閉症の子が高度な自然科学について考えているとは思いもしなかっただろう。

▼彼は10歳で大学に入る。IQはアインシュタインより高いのだとか。いまは新たな論文発表を控えている。
彼は同じ自閉症の傾向があったニュートンやアインシュタインについて語る。ニュートンは当時流行していたペストのせいで大学が閉校していた。そこで彼は学べなかった代わりに考えることに専念したという。ニュートンが考えだした全てのものは学ぶことをやめたこの2年間に生み出しているという。また、ユダヤ人であったアインシュタインはナチスの台頭するドイツの大学で職を得られず特許庁で働いたが、彼はそこでたっぷり考える時間を得、創造的な思考に費やしたのだとか。

▼常人の行動としては問題のある仕草もあるが、やはりこの少年は並みじゃないと思わせる一端をさらりと語る。彼はゲームにハマることはないようだが、そういう考える営みが彼にとってはゲームの延長みたいなものかもしれない。店で買った500枚の紙を使い切り、ホワイトボードでも書き足らず、窓ガラスにまで書く…。両親を含め駄々っ子の落書きにしか見えないシロモノが(公園で遊びもしないで!)、実は常人には理解不能な大学の専門家にしか理解できない数式だったのだ。
たった12歳の彼が微分積分を学ぶ人用のDVDを出したことが新聞で写真入りで掲載され、中国語など他国語にも翻訳され、やがてFOXテレビやCBSからも取材を受ける。それで一気に世界の数百万人もの人達に視聴されることとなった。

▼最後に、彼は大勢の会場の人々に語りかける。過去の偉人達は天才だから歴史に残る発見をしたのか?そうじゃないと。高いIQや暗記力を持つサバン症候群の人達がいる。彼等との違いは何か?「学ぶことを、考えることや創造することに変えた」ことだという。セラピストには将来も話すことが出来るようにはならないだろうと言われたが、彼はTEDの舞台で今、天才少年のゲストとして、大勢の前で話しているのだ。信じられないような奇跡!それは、彼が「学ぶことを、考えることや創造することに変えることが出来た」からなのだ。
彼は聴衆に呼びかける。「24時間という僅かな時間でもいい、他のことは何も学ぶな。ただ自分の興味のある分野について考えろ。それが音楽であろうと、建築、科学であろうと構わない。」と。

なぜそこまで「Stop learning !」(学ぶのをやめろ!)と言うのだろう?彼は「学んだことを全て忘れろ、捨て去れ!そして皆とは違うように考えろ」とも言う。全てが個性的で独自である天才だから言えることなのか。言えるから天才なのか?人の言行に盲目的に従い信徒であることを誇りとする凡人とはそこが違うと言いたいのか?“自分で考えてみよう”

※不登校の子ども達もまた独自である。今、自閉症と判断される子ども達も以前より多くなっている。
そういう子ども達に対して、私達はいつも人から外れることを悪とし、正にこの天才少年ジャコブ・ベネット君が真っ向から拒否するような同調圧力をかけてはいなかっただろうか?
親も教育関係者やその他の人もよく考えてみなければならない大きな問題がここには含まれている


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「子どものいる風景」から 20140627号 ものまねの天才:コロッケさん

◆◆ ものまねの天才コロッケさんに学ぶ ◆◆ [br]
※コロッケ爆笑ものまね20連発 [br]
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▼ある新聞がものまねの天才・コロッケさんの取材記事を書いている。コロッケさんは最近、『マネる技術』という本を出したそうな。そこには、「不細工を表現の武器にする」ことや「人前の恥ずかしさを解消する」方法などが公開されているという。彼は「自分のやりたいことのヒントになればいい」という。

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▼生い立ちにも触れている。笑いの絶えない母子家庭で育ったという。きっとそこで苦しさや辛さを笑いに転化する術を学んだのだろう。「ヨイトマケ」のお母さんを持った美輪明宏さんのように、往々にしてこういう天才の影には偉大な母の存在がある。彼の母の教えは「あおいくま」。「あせるな おこるな いばるな くさるな まけるな」。

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▼小学校時代、引っ込み思案の性格で、学校の成績はオール1だったとか。劣等生だったわけだ。でも、人気者の姉と二人で“マネる技術”を磨いた。転機は中学時代。封印を解いたものまねは大いに受けた!そこで喜ばれる喜びを知った。「相手に喜んでもらえれば、自分もうれしい」。自分でいい空気をつくる努力をするともいう。ところが最近、日本の社会で他人にかかわろうとしない風潮が広がっている—それが寂しいという。

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※「脱・不登校」にも大いに参考になる。不登校の子に特有の自己卑下や自己肯定感の欠如と相手への過剰な批判とか防衛反応—それはコインの裏表に等しい。要因は外部にもあり、内部にもある。もしかすると、「不登校」というのはそういう時代の風潮の先取りだったのかもしれない。今やそういうグレーゾーンの空気が日本全体を覆っている。そして、出口なしの閉塞感でいっぱいだ。日本沈没さえ真顔で囁かれる。

でも、出口がないわけではなかろう。d

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