「子どもネット」のブログ

「不登校支援へのご協力のお願い」について

「不登校支援へのご協力のお願い」について

▼現政権になってからボディブローのように段々と社会全体で予算等の削減や締め付けによる影響が出始めている。教育の場合もまた例外ではない。特に子どもが不登校になった場合には、国は言うまでもなく自治体においてもほとんど実質的な教育支援はなく、しばしばいわば「教育棄民」の状態に置かれてしまう。さらに「道徳教育」の導入など退行現象さえ見られる。

▼フリースクール・ぱいでぃあも、「教育ネットワーク・ニコラ」の発足(1995年)以来、そしてNPO法人化(2004年)した後にも、いろいろな形で「教育バウチャー」の必要性を訴えてきた。
 「教育バウチャー」とはいわゆる「教育に特化したクーポン券」のことで、アメリカではブッシュ政権下の時に既に実施されている。このアイディアを日本の不登校になった子どもの家庭への経済的支援に的を絞って提案したものである。だが、幾ら教育行政に訴えても一向に道は開かれない。家庭の多くがその存在を知らないということもある。フリースクールを含め、多くの民間の教育団体が不登校の子どもたち支援よりも自団体の公的支援を求めているという矛盾もある。
 なぜそこまで「教育バウチャー」を訴えるのかと言えば、これは不登校児童生徒のいる家庭への経済的支援ということもあるが(今やその側面は緊急の最重要課題だ)、家庭の保護者にとっては「教育権」の保障であり、子どもにとっては国への「学習権」の正当な要求だからである。

▼ここで見逃せないのが、これまで減少してきていた全国の不登校数が平成25年を境に増加に転じ、この少子化の中でも年々増え続け、ついに14万人の大台に乗ってしまったことである。
 また一方では「子ども食堂」に象徴されるように「子どもの貧困」が進んでいる社会の現実もある。それは本当は子どもではなく「大人の貧困」の子どもへの影響の姿である。
 さらに、若者の間では、今の給与では「一生かかっても家も持てない」「結婚もできない」「出産の費用も子育ての費用もない」というおよそ先進国ではありえないような現実もある。
 つまり、アベノミクスの自画自賛とは裏腹に、日本の国の至る所で経済的困難な家庭が出現し、自殺事件が多発し、異常な経済格差が加速度的に広がりつつあるのだ。

▼日本全体がそういう状況であるにもかかわらず、真っ先に行うべき不登校になった子どもたちへの教育公費の投入は依然ないままである。
 その原因の一つが「学校の卒業資格が学校長の判断による」ことになっている(「学校教育法」を参照)ことにありそうだ。つまり、たとえ幾ら学校教育から遠ざかろうと学校教育が前提とされ、子どもの教育全般が学校長の判断に委ねられているのである(現実は、「不登校日数」卒業の判断基準ではないから、不登校のままでも卒業できるし、そうなっている)。
 それで子どもが不登校になったとき、子どもの心の問題を考慮するよりも、何が何でも学校に戻そうとしたり、それができない時は我が子をなじったりするような家庭内問題も起きてくる。
 だが、「経済格差=教育格差」の現実にたじろぐ親を尻目に、日本の社会ではそれは「家庭の問題」(小泉純一郎元首相の言葉)とされ、教育格差の視点から経済的支援をすることはなかった。

▼だが、子どもたちは親の経済状態を考えて不登校になるわけではない。不登校になった子どもが子どもの「貧困の現実」に直面するのは不登校になった後のことであり、しかもそれは「子どもの貧困」ではなく自分を庇護する「親の貧困」の姿なのだ。共働きがほとんどの家庭の現実となった今、親御さんが不登校となった子どもの心身のケアを行うゆとりがないばかりか、厳しい経済的現実の中で身動きの取れない状態になっている。
 だから、不登校となった子どもたちを支援し救済するためにも、そういう親御さんの経済状態を把握しなければ、その側にいる子ども自体を救うことができない。

▼だが、その前に幾つかの困難がある。その一つは「日本は寄付文化に乏しい国である」ということ。断定はしたくないがほぼ事実に近い。我利我欲に執着し、自分以外への働きかけは家族や親族規模に限定される。それが公的観念が乏しいと言われる日本人の特性である。
 心ある政治家や市民感覚に長じた人はそれを嘆くが、ほとんど事実である。敢えて自ら踏み出してまで社会貢献をしようとする意識が日本人全体に薄い。個人が思い余って自ら始めた活動も「売名行為だろう」くらいの見方しかしない。東日本大震災の時にもそういうことがあった。アメリカの資産家の中には企業活動で成功して得た資金を社会貢献に寄付することを自己のステイタスとしている人さえいるのとは極めて対象的である。

▼しかし、それに対して私はあまり悲観的には考えない。日本という国がそういう文化風土になっていないことは認めるが、その半分はそういう機会に恵まれないということにもあるのではないかと考える。日本人の社会感覚が他の先進国に比べて格段に劣っていると思いたくない。だから、今必要なのはそういう行動を可能にする機会を用意することなのだとも思う。
 今、自分が関わっているNPOの活動として「不登校支援」がある。調べれば直ぐ分かることだが、常識的に考えて当然行われているべき教育上のケア放置されている。その理不尽さを教育行政に訴えてはいるが「百年河清を俟つ」状態にあり、一向に埒が明かない。だが、今不登校の中学生でも5年もすれば18~20歳となる。子の育ちに待ったはない。その子の人生がかかっているのだ。
 そこで、志ある人々にネットで呼び掛け、その思いを行動にすること、社会活動に参加・協力してもらいたいのである。自分たちの場合はそれがNPO活動による「不登校支援」なのである。
 しかし、この「不登校支援」の活動は純粋なNPO活動であり教育ビジネスではないから、広告を打ってまで呼び掛ける意図はない。あくまでもボランティアによる浄財を期待する。

▼今まで自分たちは限られたNPO活動の中で孤軍奮闘するような形で不登校支援に関わってきた。だが、NPO活動は自前の資金による自発的な活動であり、もし経済的基盤が脆弱であればその活動は長続きしない。それで、その過程で経済的その他の理由で消えていく仲間も多かった。だから、民間のNPO活動を維持するためには、会費や寄付、助成金、補助金等による紐付きではないきれいな支援が欠かせない。
 また逆に、教育の世界には利潤を追求するビジネスの一類型の観点から参入した団体もある。教育ビジネスも資本主義社会での正当な企業活動であるから、そのこと自体に問題はないが、その場合にはほとんどが高校卒業資格付与ビジネスが核となる活動であり、支払いに支障のない比較的恵まれた家庭がその対象となる。

▼だから、そういう企業団体の場合には、不登校の子どもたちに何らの公的支援のないことの理不尽さを行政に訴えることよりは、逆にその窮状を巧みに利用したビジネスを行っているとも私たちには見える。だが、一般の家庭ではNPO活動での不登校の支援活動も、そういう企業による教育ビジネス活動も同じように見えてしまうようだ。「どこもみな同じ」と。不登校の子どものいる家庭からも多分にそう思われる…いかがなものか…。そういう思いがずっと付き纏う。
 そういう中で、税金を投入した行政の活動とは完全に独立したNPO活動の本質を理解し、子どもの側に立つ不登校支援の持続を願い、不登校の子どもたちの自立を応援し、21世紀に相応しい学びの方法の確立を模索する…それがこの「不登校支援への参加・協力の呼びかけ」のあらましである。

▼個々の詳細についてはおいおい別掲で述べていこうと思うが、今までとは比較にならぬ技術革新をはじめ様々な変革の波を乗り越えていかなければならない地点に私達は来ている。教育もまたその一つだ。
 そこでは「学校とは何か?」「教育とは何か?」「学校教育だけが学びか?」「日本の学校教育はグローバルな世界でも通用するのか?」など様々なことが考えられる。
 もはや単なる不登校の問題では収まりそうにないが、この活動への参加・協力がそういうことを考える起爆剤となればとも考えている。
 ぜひ皆さん方のご協力・ご参加、忌憚のない声を寄せていただきたいと思っている。

※興味関心を持たれた方は、ぜひ「教育ネットワーク・二コラ」のサイト(「いきいき二コラ」)のページの「お願い文」にお目通しされ、ご協力・ご参加をしていただけたならとても嬉しいことです。併せて「二コラの「定款」もご覧ください。
※2019年2月21日初投稿。2月22日、2月27日一部修正。

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「不登校支援」団体等に対する調査依頼について思うこと

▼現在、不登校支援を行う全国のフリースクールの諸団体がどんな状況に置かれているかを知ってか知らずか、引きも切らず(と言えば大袈裟か?)様々な調査機関や大学の研究室、中には大学院生の研究調査や大学生の卒論のための協力依頼等の文書が郵送で届く。
 大抵「締め切りは〇〇」とある。文科省下の研究機関が公費を投入して行っている調査も目に付く。悪意に捉えれば、「ホラ、我が研究機関がわざわざ税金で行う有り難い調査依頼だから、心して記入し提出するのだぞ」と言わんばかりのバイアスのかかった臭いを感じ取ることもある。

▼だが、幾ら誠意をもって記入したところで、不登校支援に対する何らかの具体的な反応があるわけではない。その上、現場の人間からすると「何のための調査研究なの?」と首を傾けたくなるような方向違いの質問事項がないわけでもない。つまり、不登校になった本人だけでなく現場で不登校支援に携わっている人間の視点からしても問題の多い不登校理解だったりするのだ。
 今や不登校に対する社会的認知(不登校支援ではない)はかなり広まり、調査研究機関だけでなく、臨床心理士によるカウンセリング的な側面から、あるいは心療内科や精神科という医学的側面からの考察も盛んになっているが、不登校に対する基本的認識は以前とさほど変わっていないように見えなくもない。

▼1995年、私たちは『二コラ』という不登校の子どものいる現場から問題を考えることをモットーとする月刊教育雑誌を立ち上げ(「日本で初めての不登校専門誌」という評価を頂いた)た。そして、その雑誌を媒体として、関東という地から民間団体(当初から10の団体が集まった)による不登校支援の全面的な展開を始めたのである。秋と春の年2回、東京と埼玉での不登校支援のための相談会や実践報告会も開いてきた。
 その雑誌に掲載された「埼玉教育センターの取材記事」でも明らかなになっていることだが、不登校の子どもたちは当時すでに8万人の大台になっていた。だが、不登校の子どもたちの多くは「情緒障害」等の問題を抱えており、学校側自体にはほとんど問題はないと考えられていた。「不登校になる子が問題なのだ」と。
 確かに長期間学校を休めば、それまで成績の良かった子でも劇落ちする。それが証拠と言うわけだ。だが、それは学校側の印象論に過ぎない。

▼子どもが通っていた学校やクラスがそうであるから、大学や教員養成のための教育学部などでは、まだ研究の端緒に付いたばかりで、まともな研究論文もまだない状態だった。そういう基本研究のために私たちが子どもたちと接する中で積み上げてきた元データを無償で貸し出したりもした。そういう過程を経て今の大学等での研究もあるとも言える。
 データ使用の問い合わせがあった幾つもの研究機関には基本的に出展を明らかにさえすれば著作権フリーということで自由な使用許可を与えた。だが、今でもネット検索してみるだけでたぶん無断による二次三次等の使用ではないかというものも見られるが、原則固いことは言わない。もう「過去の共有財産」でいいだろうと。

▼問題は全く別のところにある。地道な不登校の研究調査が進み、それが不登校の子どもたちの具体的支援に繋がれば何も言うことはない。だが、実際はどうか。私たちは営利企業的側面から考えて最もビジネスになる高校生支援事業ではなく、火中の栗を拾うように敢えて実益のあがらない義務教育段階の子どもたち支援の事業に身を投じた.。それは「不登校」は「不“登校”」であり、「近代学校教育からの逃走」という側面、教育問題の「炭鉱のカナリヤ」的色彩を色濃く持っていたからである。「不登校」は近代学校教育の危機の体現に他ならない。しかも「義務教育は無償」が世界の趨勢でありながら、日本の不登校の子どもたちは単に学校に行かないということだけで、完全に「教育棄民」の状態に放置されてしまうのだ。

▼私たちは現在、埼玉県教育委員会と協働する形で「保護者や教員のための不登校セミナー」を夏と秋の年2回開催しているが、そこに登場する講師の方々は「子どもたちは生きるためのぎりぎりの選択として不登校を選択している」とか「不登校の子どもたちは目に見えない無数の傷を負っている」とか、その職業的立場上ぎりぎりの提示を行っているのが見える。
 残念ながら、文科省関連の調査研究の依頼にはそういうものが見えない。多忙な時間を割いて対応はしているが、日々現場で不登校の子どもたちと接する者として、そこに不登校の子どもたちの希望を託すわけにはいかないのだ。

▼そういえば、ある経験豊かな精神科医の書物に、大人の精神科の患者に子どものADHD等の発達障害の薬を服用させたところ劇的な効果があったという研究があった。もしかすると、精神病の患者というのはそういう発達障害の先の姿かも知れないのだ。「不登校」と定義され(不登校は病気じゃないというが…)、心療内科や精神科で「発達障害」と病名を付けられた人たちのうちで、どのくらいが「引きこもり」等に移行しているのだろうか?
 「もしかして…」とその医師は言う「精神病という病気はないのかも知れない」と。

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不登校の増加と学校の対応から

不登校の増加が止まらない文部科学省の調査によると、2017年度の不登校の小中学生の数は14.4万人に上る。平成25年から少子化の下でも増加に転じ、前年に比べて1万人近く増え、過去最多となった。  実際の数値をあげると、2017年度の不登校の小学生は35,032人(千人あたり5.4人)中学生が108,999人(同32.5人)であった。

不登校といじめとは連動していると言われ、いじめ件数も異常な数値となっているが、今回は置いておく。だが、不登校にせよいじめや体罰にせよ、文科省が全国の教育委員会や学校に協力を求めて実施していた統計データがいかにいい加減であるかが、図らずも2013年9月29日に大阪の市立桜宮高校での生徒の体罰自殺事件をきっかけに明らかになった。それで文部科学省がその報告を洗い直したことが大きい。
 そして、また不登校児童生徒の休み明け前後の自殺の急増を受け、2017年には「教育機会均等法」の施行があり、必ずしも「学校復帰」を働きかけないことの重要性や、フリースクールなど文科省が定める学校以外での学び活動の場の重要性に、学校教育関係者がようやく気付き始めたということもある。

▼そういう中で、教員等の学校教育の関係者が様々な困難に直面しているという。そこで、「教員の研修でうまくいくわけではない」「第三者機関が必要である」「学校で抱え込まないで外部の手を借りるべき」という識者の声も出てくる。
 だが、現場の教員の間から出てくる意見は、おしなべて「学校でなんとかしなければ」いけない。「でないと、保護者に頑張ってもらうしかなくなる」というものだ。だから、「学校で学び合い、組織で対応する枠組みが必要だ」となる。
 相変わらず、こういう認識にとどまっている。そこから、「もっとたくさんの高い専門性をもったスクールカウンセラーを!」という叫びも出てくる。

▼一見、もっともらしく真面目に取り組んでいるようにも見えるが、一体今の学校現場でそれがどれだけ可能なのだろうか?  「不登校の生徒を否定的にとらえない」ということ一つでも実現できるのか?単にカウンセリングの技法を不登校対策として学んだとして、不登校になった児童生徒の真剣な眼差しにどこまで耐えられるのか?真に必要なのは単なる技法ではない。心にもない付け焼刃的な化けの皮はすぐに剥がされてしまうだろう。

▼そこに見られるのは「学校は無謬だ」という架空の神話であり、教員のご都合主義に過ぎない。子どもは自己存在の全てを賭して不登校を選択したというのに。
 不登校となった児童生徒の瞳にどんな風景が映っているか、一度でも児童生徒の目線に立ってあたりを見回したことがあるだろうか?いつも学校側の建前に従順にならない児童生徒を非難がましく、いらだちの気持ちを覚えながら上から目線で接していたのではないか?
 なぜ、年端もいかない児童生徒がその全身全霊をかけて「ノー!」と言うに至ったのか、本気で考えたことがあるだろうか?子どもたちはそれを言葉ではなく肌で感じ取るのだ。
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不登校セミナーの相談ブースで語ったこと

▼10月13日(土)の「保護者や教員のための不登校セミナー」第2部の午後のフリースクール担当の教育相談(不登校相談)ブースのある6Fのフロアーに相談に来られた保護者の数は昨年度よりは明らかに多かった。保護者の間でも徒に子どもに学校復帰を促すよりは、それ以外の選択肢も検討してみよう…そういう静かな変化が起きているのかなという印象も持った(1Fの教育委員会のブースへの相談者の様子を聞かなければ断定的なことは言えないが)。

▼相談に訪れたのは、ほとんどはその親御さん。母親だけでなく夫婦で来られる割合が高いのは近年の特徴だ。不登校になって苦しんでいるのは当人には違いないが、時として保護者の方が当人以上に戸惑い動揺している
 保護者として自分の子育ての責任を問われていると思い込む人は多い。だから、変な話だが、WISC-Ⅳ等の検査で子どものIQの数値が分かったり、生得的な発達障害らしいデータが出されたりすると、必ずしも自分の子育てのせいではないのだと逆に安心される方も中にはいる。
 これだけを見ても、不登校となった子どもの話だけに焦点を合わせればいいという単純な話ではないし、従来的な子育て論で一方的に親の育児法を俎上に載せればいいということにもならない。

▼そこで、個別な事例についてはそれに即応した応答や示唆を行ったが、全体的な「親の気付き、大人の気付き」に関連することにおいては、ある一定の物の見方・考え方を提示した。
 一つは、義務教育制度が日本だけでなくどの国においても無償で行われていることの意味についての説明。その義務教育によってその国を再生産させる人づくりが行われていること。だから、「義務教育は学問以前の人としての基礎基本、人づくりの土台づくりの営み」であること。将来その人がより研鑽を積み、高い建物を建てることもそれによって可能になると。
 なのに実際には、先進国の仲間と言いながら、日本の場合、不登校となって学校を離れた子どもには国の教育公費の一切の支援はなくなり、教育棄民の状態に放置され、経済難民の予備軍さえ生み出す状態にあると

▼具体的に、すぐできる方法として提示したのは、既にこのブログでも紹介している二つのもの。「究極の不登校、アインシュタイン」「人生に迷った時の言葉」の二つ。
 その意味については、大体このように説明した。
 ・不登校になれば、自分を不登校に追い込んだ原因や環境、言い換えれば「風景」を変えたいと思う。でも、幾らそう願っても自分を取り巻く風景は変わらない。では、どうするか?相手を変えようとするのではなく自分で動くことだ。自分を取り巻く風景を変えたければ自ら行動することだ。そうすれば、あれほど変わることを願っても変わらなかった風景は嘘のようにあっけなく変わる。「猫に鈴を!」と願っても誰も鈴をつける行動をしなければ事態は変わらない。自転車に乗りたければ、自らトレーニングして体得することだと。
 ・しかし、物には幾ら自分が願っても、自分が行動しても容易に変わらぬ場合もある。そこに厳然と「あるという事実」は変えようがない。事実は事実だ。しかし、物には見方、捉え方というものがある。たとえば、このペットボトル。水が半分入っている。これをどう見るか。「なんだ、半分しか入ってないじゃないか」と見るか「すげえ、まだ半分も水が残っている」」と見るか。水が半分という事実は変わらないが、見方を変えることで今後の姿勢、向き合い方が変わって来る。そして、物事は自分の思ったように動いていくもの
 そのために考えるヒントとして、来訪者にはお渡しした。

▼どんな相談にのろうと、こちらは相談者が考え行動するための手掛かりしか提示できない。行動に誘うことはできるが「行動するのは自分自身」である。これは、どのような場合でも同じこと。不登校の子どもについても言えること。親御さんはその子の代わりになることはできないし、そうすることが本人のためになることは何もないのだと。その子の出来る度合いに応じてその子に行動を促すしかないのだと。
 たとえば、学校を離れてフリースクールにやって来る子の中に、「指示待ち人間」がやたらと多い。学校でつくられた「いい生徒像」だろうか。そして、極端に「失敗を恐れる」。こういう子どもほど学校の中で「期待される人間像」を演じ、逆に自分の中身は空になるのかもしれない。
 ぱいでぃあでは、そういう子ども像を一つずつ壊すことから始める。「“トイレに行くな!”と言えばどうする?」と問い、「少なくとも生理的行動は自分で判断しその旨告げて自分で行動すればいい」とか「どんどん失敗しろ、失敗を恐れるな、失敗から学べ」とけしかける。一方で薄皮一枚一枚剥がすような慎重な対応もまた欠かせない。そこはその子の不登校の事情によってまるで違ってくる。単に「臨床心理士の資格を取りました」レベルで済む事柄ではない。
 実際に、そういう子が通い始めた場合には、「一人ひとり顔も違い、声も違い、背丈も違うように、外側からは見えない心もまた違う」ことを十分に認識しながら、こちらもその子の個性と真摯に真っさらの状態で向き合うことから始めることになる。そんなことを自分の場合は話した。

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秋の「不登校セミナー」の講演から思ったこと

▼近年、埼玉県教育委員会と不登校児童生徒支援の官民連携会議との間で進められてきた「保護者や教員のための不登校セミナー」の第2回が、さいたま市民会館うらわにおいて開催された。 午前の部は埼玉大学教育学部教授・馬場久志氏による講演「不登校についてともに考える」、午後の部は各フロアー各ブースに於いてフリースクール、不登校支援の高等学校やサポート校、技能連携校など、親の会、不登校からでも進学が可能な県立高校などによる個別相談会・情報提供が行われた。

▼不登校の捉え方については、教育行政側と民間側とでは立場上かなりの開きがある。当然、問題の捉え方の違いもある。
 そういう中で、馬場教授の講演は行われたが、それは今までいろいろな人たちがテーマとしてきた現場での関わり方に無原則に立つものでも、また一方的に教育行政側の立場に忖度するものでもなかった。不登校が日本の社会で大きな問題として取り上げられるようになったその過程やその対応の仕方を教育学的な視点から振り返り、今に至る親や教師等の教育関係者に今まで持続してきた固定的な価値観や物の見方に再考を迫り、等しく気づきを促するものであったと言える。
 つまりは、今日の社会の歪みや大人の教育観の歪みなど、ともすると我々が子どものために「よかれ」とやって来た様々な方策に対し、それを評価する一方、「でも、子どもたちは~」と子どもの視点から逆照射するものでもあったと言える。だから、不登校論そのものは極めてオーソドックスなものではあったが、次の行動へと大人を促す説得力を持つものであったと言えようか。

▼不登校に対する最近の動向として、教育行政が「学校復帰」を促すことへの疑問、不登校の子どもを「病気」と決め付けないこと(一方には「発達障害」の増加、親や教育関係者が医療に依存しがちな傾向もあるのだが)、過去の功罪を含めて民間教育の取り組みを積極的に評価する等さまざまあるが、馬場教授は講演の中で、不登校の始まりは「子どもにとっては最後の意思表示である」こと、「学校復帰だけが不登校の解決ではない」こと、「民間からの協力を得る」ことの必要性、子どもが「安心して生きる権利」を主張できる「自由な時間・空間を保証する」ことの大切さ等を説き、フリースクールなど「学校外の学び場」の役割を説いた意義は大きかろうと思う。馬場教授が言うように、「徐々に、本当に少しずつ」の変化ではあるが、不登校(「不登校は問題行動ではない」!)への見方が確実に変化しつつあることを確認した講演でもあった。

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究極の不登校、アインシュタインの言葉から

🔶ご存知、理論物理学の超有名人、アルベルト・アインシュタイン。でも、彼が「特殊相対性理論」「一般相対性理論」等の研究でノーベル賞を取ったこと以外、どんな人だったかは意外に詳しくは知られていません。  彼もまた「学校嫌い」の「不登校生」であったことも。いやいや、彼が不登校生であったことと後年彼がノーベル賞を受賞する偉大な業績を残したこととは無関係ではないでしょう。 そんな彼の珠玉の名言の幾つかを紹介します(一部編集)。


〇想像力は知識よりも重要である。

〇私の精神と物質的生活は、他者の労働の上に成り立っている。

〇常識とは18歳までの偏見のコレクションである。

〇調べられるものをいちいち覚える必要などない。

〇学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、

 それこそが教育だ。

〇人間として真の偉大さに至る道は、一つしかない。

 それは何度もひどい目にあうという試練の道である。

〇人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。

 普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。

〇私は未来のことは考えない。あっという間にやってくるからだ。

〇私は未来のことを考えない。

 たった今決めて行動したことや、

 たった今の幸せを感じることの方が未来をよくする。

 未来は今がつくるのです。

〇一度失敗したら、なぜ失敗したかを考えて、新しい取り組みを考えよう。

〇人生にはたった二つの生き方があるだけだ。

 一つは奇跡などないかのような生き方、

 もう一つは、まるですべてが奇跡であるかのような生き方だ。

〇何かを学ぶためには、自分で体験する以外にいい方法はない。

〇人生とは自転車のようなものだ。

 倒れないようにするためには、走らなければならない。

〇人間性に絶望してはいけません。なぜなら私達は人間なのですから。

〇人の価値とは、その人が得たものではなくその人が与えたもので測られる。

〇私の成功の秘訣が一つだけある、とすれば、それはずっと子どものままでいたことです。

〇他人のために尽くす人生こそ、価値ある人生だ。

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学業以前に大事なこと

▼我が子が不登校になると仰天する親御さんがほとんどだ。無理はない。不登校のことはいろいろ耳にはしていたけれど、「まさか我が子が!」と感じるのが一般的だろう。交通法規を守って自動車を運転していれば大丈夫と思っていたのに、いきなり事故にあったような思いかも。

▼全国の小中学生の不登校数は平成25年を境に4年連続で増えており13万3600人以上の児童生徒が「年間30日以上の長期欠席の不登校」となっている(文部科学省の「問題行動・不登校等調査」による)。各学校からの申告による統計でこういうデータがでるのだから、実際の長期欠席の児童生徒はさらに多いはずである。

▼どういう事情で子どもが不登校になったかは、様々なケースがあり、一概には言えない。しかし、1990年代から顕著になった不登校の検査データ化も進み、ある程度の類型化は可能になっている。受精から誕生に至る過程での何らかの支障があってのものか、文化的社会的教育的な後天的な要因に依るものか、あるいは二次障害的な側面が強いのか等々、今は必ずしも(依然として根強いものはあるが)家庭や親御さんの問題とは考えなくてもよくはなってきている。

▼しかし、いや、だからこそ、とでも言えばいいのか、親御さんは「子どもが学校に行かなくなった。勉強はどうしよう」と考えがちである。我が子に義務教育を提供する保護者としての責任がまず脳裏をかすめるらしい。 その結果、一見自分の子どもの不登校を認めるような「もの分かりの良さ」を見せながら、他方では様々なプレッシャーを陰に陽に子どもにかけることになる。そうすることが我が子を尊重する親としての当然の行動であり免罪符であるかのように。

▼しかし、実際のところは、そういう関わり方は子どもの側からすれば、最悪の迫り方になる。子どもが学校を離れたのは、そこに自分の居場所がなかった、自分がいきいき出来る場がなかった、自分が自分らしく自由に息できる場がなかった…というような理由に因るものなのに、自分が逃れ匿ってもらおうとした家庭において逆に思ってもいなかった束縛に直面することになる。 時には「親の愛」も束縛となる。親子であるから理屈抜きにわかり合えることもあれば、親子だからこその桎梏もある。そこでは個人の自由の翼は力を失い、家族のキヅナは逆に世間体や社会の普通の基準を意識させる。

▼もし、我が子が様々な思惑を断ち切って、不登校という選択をしたのなら、まずはそれを最大限尊重すべきだ。そして、その子の思いを受け止め、活かす方向で考えるべきであろう。元気な姿で生きて眼の前にいることを喜びとすべきなのだ。実際に、家族に理解されなかったと思ったり、家族に打ち明けることさえも出来ずに、自死を選ぶ場合だってないわけではないのだから。

▼これは、勉強がどうの、教科学習がどうの、出席日数がどうの、受験・進学がどうの…という以前の問題である。 この問題がクリアーできていなければ、 逆に言うならば、ここがクリアーできていれば、学業や進学等の問題はいつでも挑戦可能なものばかりである。本人や親御さんにはこの見極めが是非とも必要だ。

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「人生に迷った時の言葉」から

2018年10月13日(土)に秋の「保護者や教員のための不登校セミナー」(第2回)(埼玉県教育委員会主催、官民連携会議協賛)が開催される。
 第1部の埼玉大学教授・馬場久志氏の講演に続いて、第2部では、各ブースで個別の相談会が予定されている。県教委、サポート校等の高校部門、フリースクールの小中の義務教育部門、親の会部門等である。

▼学校離れた子どもたちに「学業のケア」も必要だが、それ以前に「心のケア」が必要だ。その安定や平穏を取り戻して初めて自分の目的とするものに取り組むことができる。
 そういう子どもたちに、先ずは こんな動画を見てもらいたい。気持ちの持ち方、気付きや発見というものが意外な効果を発揮する。自分を見つめ直すよすがになれば幸いだ。

「人生に迷った時の言葉」

不登校の子どもたちに必要なこと

▼埼玉県でも恒例となった「不登校セミナー」の第2回が10月13日(土)に予定されているが、全国各地で同様の催しが行われるだろうと思います。そこで、学校を離れた子どもたちの日常の過ごし方や、受験や進学について、若干触れてみたいと思います。

▼小学校や中学校では、基本的にほとんどがそのまま上級学校に進学することを前提にしていますから、あらたまった進学ガイダンスでもない限り、受験学年の中学3年生以外にはあまり熱心な指導はないかも知れません。特に小学生の場合の勉強は、都内の学校でもない限り、私立向けの特別な進学指導そのものがないかもしれませんね。

▼しかし、不登校を選択した子どもの場合にはちょっと事情が違います。不登校を意識的に選択したかやむを得ず選択したかは別にして、学校からの情報はほとんど入って来なくなります。また、進路進学に関する情報もしかりです。我が子が不登校になって狼狽えたであろうに、不登校は初めての経験なのに、不登校になったらどうしたらいいかの情報はまず入って来ません。

▼思い切って学校に問い合わせても、学校の先生自体が知らないことが多いですね不登校の子は学校に来なくなりますから、一般的な知識としては知っていても、その子に合った具体的な指導はとてもムリなのです。
 ですから、この時期に開かれる「不登校セミナー」や「進路相談会」のような催しは、不登校の子のいる家庭にとっては、同じような悩みを抱えた人同士が出会える場としてもとても有意義な場となります。

義務教育段階は基本的に年齢主義をとっています。ですから、「家の子は何も勉強していないのに卒業させるんですか!」とか「いつまで学校はうちの子を縛り付けておく積りですか!」という、親御さんから全く真逆とも言える反応があったしても、その質問には半ばスルーする形で、その年齢が来ればそれが当たり前であるかのようにほぼ自動的に卒業させるのが通例です。

受験や進学に関する事務的な手続きは学校に在籍する生徒に対する学校側の義務ですから、子どもの学習権としてつつがなく
やってもらえばいいだけのことです。不登校の子どもたちにとっては、むしろ、学校外での活動や勉強の在り方、自分に合った社会参加の仕方やその感性磨きなど、そういうことが主要な課題となると考えたがいいだろうと思います。

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沖縄の集団自決を忘れるな!

▼本来は保守派であった故翁長知事が沖縄の生活圏を守るために大きく反政府へと舵を切ったのは、第一次安倍内閣が誕生し、高校の歴史教科書が検定により軍の強制により行われた「沖縄の集団自決」に関する記述が削除されたからだと言われる。

▼「沖縄の集団自決」に関しては、その凄惨すぎる様相は幾多の出版物等が出ている紛れもない歴史的事実である。ところが、歴史修正主義と評される安倍政権はその歴史を正視して教訓としないばかりか、歴史教科書の改ざんによってそれをなかったかの如く葬り去ろうとしている。

▼私たちは過去の愚かさとその生きる知恵を歴史に学びたいものだ。 ここに、渡嘉敷島での惨劇を体験した金城重明さんの証言がある。その語りに謙虚に耳を傾けたい。

「渡嘉敷島での集団自決」