学業以前に大事なこと

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▼我が子が不登校になると仰天する親御さんがほとんどだ。無理はない。不登校のことはいろいろ耳にはしていたけれど、「まさか我が子が!」と感じるのが一般的だろう。交通法規を守って自動車を運転していれば大丈夫と思っていたのに、いきなり事故にあったような思いかも。

▼全国の小中学生の不登校数は平成25年を境に4年連続で増えており13万3600人以上の児童生徒が「年間30日以上の長期欠席の不登校」となっている(文部科学省の「問題行動・不登校等調査」による)。各学校からの申告による統計でこういうデータがでるのだから、実際の長期欠席の児童生徒はさらに多いはずである。

▼どういう事情で子どもが不登校になったかは、様々なケースがあり、一概には言えない。しかし、1990年代から顕著になった不登校の検査データ化も進み、ある程度の類型化は可能になっている。受精から誕生に至る過程での何らかの支障があってのものか、文化的社会的教育的な後天的な要因に依るものか、あるいは二次障害的な側面が強いのか等々、今は必ずしも(依然として根強いものはあるが)家庭や親御さんの問題とは考えなくてもよくはなってきている。

▼しかし、いや、だからこそ、とでも言えばいいのか、親御さんは「子どもが学校に行かなくなった。勉強はどうしよう」と考えがちである。我が子に義務教育を提供する保護者としての責任がまず脳裏をかすめるらしい。 その結果、一見自分の子どもの不登校を認めるような「もの分かりの良さ」を見せながら、他方では様々なプレッシャーを陰に陽に子どもにかけることになる。そうすることが我が子を尊重する親としての当然の行動であり免罪符であるかのように。

▼しかし、実際のところは、そういう関わり方は子どもの側からすれば、最悪の迫り方になる。子どもが学校を離れたのは、そこに自分の居場所がなかった、自分がいきいき出来る場がなかった、自分が自分らしく自由に息できる場がなかった…というような理由に因るものなのに、自分が逃れ匿ってもらおうとした家庭において逆に思ってもいなかった束縛に直面することになる。 時には「親の愛」も束縛となる。親子であるから理屈抜きにわかり合えることもあれば、親子だからこその桎梏もある。そこでは個人の自由の翼は力を失い、家族のキヅナは逆に世間体や社会の普通の基準を意識させる。

▼もし、我が子が様々な思惑を断ち切って、不登校という選択をしたのなら、まずはそれを最大限尊重すべきだ。そして、その子の思いを受け止め、活かす方向で考えるべきであろう。元気な姿で生きて眼の前にいることを喜びとすべきなのだ。実際に、家族に理解されなかったと思ったり、家族に打ち明けることさえも出来ずに、自死を選ぶ場合だってないわけではないのだから。

▼これは、勉強がどうの、教科学習がどうの、出席日数がどうの、受験・進学がどうの…という以前の問題である。 この問題がクリアーできていなければ、 逆に言うならば、ここがクリアーできていれば、学業や進学等の問題はいつでも挑戦可能なものばかりである。本人や親御さんにはこの見極めが是非とも必要だ。

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