「ノーマスク児童の訴え」のビデオを観て考える

「ついに出たか!」という感慨が強い。出るべくして出たという気もする。

民間には「マスク警察」まで出現し、当局側では「パスポート」まで準備する。
でも、一方には「マスク着用の疑問」の声があります。
特に、学校の児童へのマスク強要はどうなのか?

マスク着用賛成派も反対派もこのビデオを観て考えたいですね。

↓ をクリックしてご覧ください。

「ノーマスク児童の訴え」

「ボラバッジ」の構想はいつからあったの?

10月7日(木)から始まった「二コラ」の「ボラバッジ」プロジェクト。

「ボラバッジ」プロジェクトのクラウドファンディングにご支援を!

実は今回、新たに発案したものではないんですね。今から数えて23年前の1998年7月29日(水)、東京都豊島区民センターにおいて「二コラ3周年記念教育フォーラム」と題したイベントを開催しています。これがその時の集会の風景です(月刊教育誌『二コラ』9月号)。
 
目次にあるように、様々な分野で活動されている『二コラ』の読者の方々が一堂に会し、熱い討議を重ねました。

そこでお話をされた方の一人に、都内で「愛のふれあいバッヂ運動」をされているAさんという方がおられ、「愛による助け合い」を提唱されました。参加者の多くが今の子どもたちを取り巻く問題点を指摘することが多かったのに対して、こういう運動の呼び掛けは異彩を放ったのを今でも覚えています。今ではもう20年以上前のお話になります。
残念ながら、「二コラ」では当面の課題に忙殺され、その方のご提案を運動に取り入れることはできませんでした。また、当時のマスコミもそういう社会運動にはほとんど無知の状態で、私たちの不登校支援を中心とする教育の問題についても同様でした。
しかし、「ボラバッジ」プロジェクトの発案はAさんにあったと言ってもいいと思います。ただし、今考えると、それは健常者である我々が社会的弱者である人々に愛の手を差し伸べようという運動で、当時はそれはそれとして素晴らしい試みなのですが、そこに社会的弱者に対するある種の固定的な見方を感じ取られる方がいるかもと思いましたが、実際にはあまり広がりはえられなかったように思います。

そういうことの反省を踏まえ、「ボラバッジ」では、Aさんの見方を発展させ、その関係はもっと交換可能なものであり、どの立場にあろうと生きて存在していること自体に意味があること、誰もが固有のアイデンティティを有し、互いに自律的に生きられる社会を築くことが目標となっています。その意味で、この20年間の体験と学びは大きいものでした。

この「愛のふれあいバッジ運動」がはっきりと「ボラバッジ」としてイメージ化されたのは、実は2011年3月11日に発生した東日本大地震が引き金でした。
当日はちょうどフリースクール・ぱいでぃあの教室でその年度最後の保護者会をやっていました。激しく揺れる中、「じっと動かないで!ここがダメだったら、周りは全て駄目だから」と制したのを覚えています。参加者のお母さんの中に北海道で震度7の大地震に見舞われ地面に亀裂が走り、トラウマになった方もいました。
その地震の支援者の中に、被災者のために炊き出しを続けた杉良太郎さんがおられ、「ええ売名行為です。あなたも一億円出してやってはどうですか」というような返答をされたと話題にもなりました。しかし、お金のあるなしにかかわらず、ボランティアを思い立ったたくさんの人がいるはずです。その時にこの「ボラバッジ」のことを初めて真剣に考えました。ちょうど今から10年前の話になります。

地震と言えば、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の直後に、単身バイクではせ参じ、ボランティア活動に専心した田中康夫氏の活動も無視できません。教育雑誌『二コラ』創刊と同時に「二コラの会」を立ち上げたのは、その年の6月でした。
ただ、「ボラバッジ」の実行そのものは、「やって成功する可能性は低い、日本にはまだそういう社会文化が醸成されていない」という反対の声が強く、実行を断念した経緯があります。(後で知ったことだが、まさにその時、時代の要請に導かれるように、まずREADYFOR、ついでCAMPFIREと日本の二大クラウドファンディングが産声を上げている)

つまり、今まで二度バッジ活動の機運はありながら、実行には移せずに来ました。そして、今回、まさに「三度目の正直」ということで実行に移したことになります。
今回、10月7日の開始から月末まで、ほとんど20数日のクラファン期間と、普通の半分の長さになりますが、敢えて決行しました。成否はまだ誰の知りません。それは全て皆さんの「行動」にかかっていると言えます。私たちはただその実現を願うばかりです。

さて、それでは、最初に戻って、20数年前、東京・池袋の豊島公会堂で開催した二コラ3周年のイベントで、Aさんがどういうお話をされたのか、その全文を紹介したい
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■「愛による助け合い」愛のふれあいバッヂ運動 (代表)A

 こんにちは、青木と申します。ちょっとお話ししたいことを用意してきたんですけれども、今まで何人もの方のお話を聞きながら、私も母親の立場として少しお話させていただきたいと思います。
 やはりいろいろな問題があると思うんですけれども、今日のテーマであります教育ということね、教え育てる、これは基本的には学校だとか社会とか言う前に、やはり家庭ではないかと思います。小さな頃から愛して育てていく過程の中で子どもが作り上げていくもの、それが今度は人を愛していくものになっていく、これが人から人に伝わっていく本当の文化ではないかと思います。
 私たちは生命を授かって生まれてきて、そして何も持たずに去っていくわけですよね。どんな立派な家を持っても、名誉や地位があっても、去っていく時に持っていけるのは、自分自身がどう生きたかという心ひとつ、それから何を残して何を伝えていけたかという自分が見ることができない財産を置いて行くだけではないかと思っています。
 そういう意味では、本当にたくんのやり方、方法、100人いれば100通りの方法で子どものことを真剣に考えている、そういう人たちが集まっている会がニコラの会ではないかと思いました。こういう心をいかに伝えていくかということをこういう場を使いながら、自分たちの中でまた確認し合っていく。それぞれのいいと思う方法でまたそれを伝えていく。それが私たちの一番大切なことではないかと思うんです。
 家庭の中でも、いろいろな意見があって当たり前、ぶつかって当たり前、喧嘩をして当たり前、それでいいと一思うんです。ただ、意見を言っているその心、どんな気持ちでそれを伝えているのか、喧嘩をしたくて言っているのか、愛しているから言っているのか、それを掴まえられる心の土台、愛されているという自信が必要ではないか。
 今回はふれあいバッチということで来ましたので(笑い)、それが基本になって、私は母親の立場として、人として、家庭の中にいながらも、また子どものために世の中に何を残していけるのかなと、子どもも大分成長しましたので、ある意味では自分の心の中から我が子を愛するというエネルギーを社会に向けてみたいと、そう思ったところからこの運動を考えました。
 それぞれの方がそれぞれの現場で本当に一生懸命やっていらっしゃるのがよく分かります。私も地域の民生児童委員として地域に関わらせていただいております。今これから何をなすべきかということについては、希望を絶対持ち続ける、良くなるためにやっていくという思いは、どこまでも私たちが持っていかなければいけないものだと思います。で、それを具体的に少し考えまして、愛のふれあいバッヂという方法を考えました。
 これは、そこに書いてありますように、私たち電車に乗ってもそうなんですけれども、お年寄りのお荷物を持った方がいらっしゃっても、断られたらどうしよう、もしかしたら次の駅で降りるかもしれないと、理性が働くとちょっと行動に移せなくなってしまう。そんなことが、きっとあるような気がするんです。そこで、私はほんの少し見る目を変えてみるのはどうかと考えました。
 声を掛ける、助け合う。これは私たちが日常でも出来やすいことだと思うんですけれども、お互いに悩んだり苦しんだりして生きている。その心の中は覗くことは出来ないけれども、お隣や自分の身近にいる人だけでも、「袖振り合うも他生の縁」ではないですけれども、顔色の悪い人に一声掛けるくらいの勇気を大人が持つこと、それが子どもに伝わっていくのが本当の教育、基本的な教育ではないのかと。伝えるのではなく伝わっていくものというのは、子どもが身体で覚えていく大切なことではないかと考えました。
 十分優しい気持ちは持っているんだけれども表現しずらい。そこで分かりやすいという意味で考えたのがバッチでした。最初は元気も病気もお互い様という意味で、リバーシブル (表も裏も使える)も考えたんですあwれども、高かったんです。一つが1600円もかかる。お金をかけて何かをするのではなくて、ただ近くにいるそんな人たちに、例えば電車の中で亡くなっていて、死亡推定時間から考えると新宿から高尾に行ってまた新宿に戻ってもう一度小金井の駅で車掌さんが見つけたという事件、ちょっとご存じの方がいらっしゃるかと思うんですけれども、また山手線の中で亡くなったまま見つかった方は手術をしていたんではないか、身近なところでは、よく知っている人も22歳でしたけれども心臓が悪くて、バスが終点で折り返した時にはもう意識はなかったそうです。結局、寝ているのかと間違えられて、そのまま連れて行かれたと。その寝ているかと間違えられたという
ところが、私は非常に寂しかったんです。その運転手さんにしてみると、酔っぱらっていて声を掛けた瞬間に怒鳴られたという経験があった時には、どうしてもそういう先入観が出来てしまうのではないかと思うんです。
 そのように、一番大切な人のいのち。私たちはあー生きているから何かが出来る。悩んだり苦しんだり笑ったりという基本的なところをもう一度考え直す原点に戻っていくような姿勢が、少しずつ子どもに何かを伝えていけることになるのではないかと。そんなことを子ども一緒に関わって行けたらいいなと。「あの人顔色が悪いわね、声を掛けてみようか」という会話を子どと出来ても素敵かなと。そんなことでも人の心はとっても救われるのではないかと思うんです。
 実は、ポスターがあるんですけれども。バッチをぜひつけて下さいということではなくて、目に見えないことで悩んでいるペースメーカーとか心臓病のある方でも、見えないところで見えない悩みを抱えなが普通に暮らしたいと思っている方がたくさんいるということ、そんなことを意識するだけでも、日常生活にいい形で相乗効果として現れるのではないかと、そういう意味でこういうポスターを作ってみました。
 バッチがあることで実際助かった方がたくさんいます。実は、3年前から地道に少しずつ動いていて、東京都内で120名くらいの方がこの赤いバッヂをつけています。でも、このバッヂをつけることで声を掛けていただいて助かりましたという声が少ないんです。なぜかというと、この中でも知っている方いらっしゃいますか?そういう状況なんです。それが勇気になったという声があるので、私は続けてやっています。たとえば、川崎病の子どものお母さんがずっと子どもをかかえて電車やバスで移動していました。けれども、小学校4年生になって身体も大きくなりますと、電車やバスで子どもさんを席に座らせる時、周りの目はとてもつらかった。でも、子どもさんに
このバッチをつけてから、私の心が楽になりましたと。このような内容のお手紙やお電話をいただくことによって、私たちどんなふうにすればいいのかともぞもぞしながら続けて参りました。
 このポスターは買っていただく形になってしまうんですけれども、こういうバッヂをつけている人はこういう事情のある人だということを隅の方に書かせていただいていてます。それ以上にこういうことを始めた趣旨である、みんなで助け合っていきませんかと。病気も元気も、それから子どもが悩む時も元気な時も病気の時も、それはみんなその時々によってお互い様の人生で、暖かい目で認め合って。 隠さなければいけないような世の中ではいけないような気がするんです。本音で話せる場をたくさん持っていくことがとても大切な気がするんです。
 興味がありましたら、何かの形でご協力いただければ、赤いバッヂの方120名おりますので、今日こんな話を聞いたよということを話していただければ随分助かりま
す。ぜひお願いしたいなと思います。

未来を切り開く「ボラバッジ」プロジェクト

未来を切り開く「ボラバッジ」のクラウドファンディングのプロジェクトをGoogMorningで始めました。

「思いを形に、形から行動へ」というのがこのボラバッジ(ボランティア・バッジ)の趣旨です。胸に思いはあってもそれを言葉や行動に移せないという日本人って多いですね。そこでこの「ボラバッジ」の登場です。相手に手助けの思いを伝えたい、助けになりたいという時、この胸の赤いバッジがさりげなくその思いを伝えます。また、誰かにちょっとお願いがしたい時、胸の黄色いバッジが示すサインで気軽に声をかけてくれる人が現れるでしょう。時には助け、時には助けられのお互い様。あなたの笑顔に生き甲斐を見出す人も現れるかもしれません。

また、ある人には来た道であり、またある人にはこれから行く道かも知れません。そういう人々の心の交流も楽しいものです。お互いの人生を彩ります。

長話は無用かも。

ここをちょっと覗いてみてください。

たくましく生きるようになった我が子を見て思う (KSさん)

アンバー今となってはもう随分前のこと、でも当人や親御さんにとっては決して忘れることのできない、人生の中での貴重な一ページになったであろう不登校体験。それをKSさんに語っていただきました。
今もなお教育ネットワーク・二コラの活動に関わって下さっています。どうぞ関心のある方はお読みください。
なおこれは、今回だけでなく次回にも続きます。
 
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息子が学校に行きたくないと言い出したのは、今から六年前の新学期で、小学校の4年生になったばかりの時でした。3年生の時の学校での苦い経験がトラウマとなっていたり、その他にも私が気付かない要因も色々あったと思います。しかし当時の私は、親として何をすれば息子がその状況から抜け出せるのかを知る由もなく、焦りが募るあまりに、無理に学校に行かせようとしたこともありました。
 家に閉じこもって生活していても息子は精神的に不安定だったので、精神科に通い、薬を処方してもらいました。けれども根本的な解決にはなりませんでした。
 不登校になって一年以上が過ぎた頃、主人からフリースクールに通わせるのはどうかと提案があり、初めてぱいでぃあの先生に面談をお願いしたのです。
 
 その後約9ヶ月間、ぱいでぃあでお世話になりました。今振り返っても、私達親子にとって大きな学びの場であり、密度の濃い時間だったと思います。
「薬を飲ませるより、『おいしいお茶が入ったから飲んでね』というお母さんの一言の方がよほど息子さんの力になるのですよ。
「充分な肥料と水と太陽があれば、植物は自分の伸び行く方向に向かってスクスクと育ちます。子育ても同じです。」
 ぱいでぃあの先生方のそれらのお話が今もよく心に甦ります。
 なおかつ、息子が広汎性の発達障害を持っていることも初めて先生から教えて頂きました。初めは衝撃を受けましたが、何故私が当たり前のように理解できることが息子にできないのかを理解できるようになりました。それまで必要以上に息子を叱っていたように思います。
(№2に続く)
 
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息子は5年生が終わる頃、6年生になったら元の学校に通うことを自分で決めました。そしてそれからは殆ど休むことなく学校に通っています。
 何ヵ月か前には「あちこちにぶつかりながら進むのがオレなんだよ」と笑顔で話しており、精神的にも成長したことが感じられました。
 学校からから帰ると相変わらずパソコンのゲームに夢中になっている様子を見ると心配になることが日常茶飯事ですが、きっとこれからも自分の課題を自分で乗り越えながら生きていくことだと思います。 
 ぱいでぃあの先生方は、私達親子のために骨身を惜しまず力を尽くして下さいました。親として、子供の肥やしになるような生き方が大切であることを教えて下さる一方で、先生方もまた、私に糧を与えて下さったと感じています。これからも、ぱいでぃあで過ごした時間を大切にしていきたいと思います。
(№2完)

~その先にある光~

 

  ぱいでぃあ卒業生KK君のお母さんKHさん

 

 小学2年生の夏休み、息子は情緒不安定になっていた。

幼い頃から手のかかる子どもであったが、幼稚園まではそれなりに楽しく過ごせていた。しかし、小学生になると沢山の決まり事や宿題、友人関係などで大変だと感じる日々が増えていった。手先が不器用で身支度に時間がかかり、道具や物の管理が出来ず、いつも探し物をしていた。宿題は私が手伝わなければ絶対に終わらない。また宿題を始めると必ず、ひどく不機嫌になった。どんなに嫌でも、忘れて学校で怒られたくないから、やりたくなくてもやらなければいけない。他の子には適量と思われる宿題の量が、私の息子にとってはとても多く感じられた。しかし私は、今は大変でもその内に慣れて来るだろうと楽観視していたが・・・息子の機嫌は悪くなる一方だった。そして、2学期に入ると頭痛や腹痛など体調不良を訴えるようになり、しいだいに教室に入れなくなった。

 

不登校を考える上で理解しなければならないのは、息子の発達障害である。

「手のかかる子」から「発達障害」を疑い始めたと同時に、息子はこれまでの生活でエネルギーを使い果たし不安定になった。発達障害の知識に乏しかった夫と私は、本やネットで勉強しながら日々不安定になっていく息子の対応に追われた。学校や教育センターに相談し、発達検査を受け、医療機関の受診を勧められた。病院で更に検査を受け、診断されたのが12月の事である。

 私は母親として、ちゃんと子どもを育てたいと思っていた。多くは望まない、天才でなくて良い、普通で良い、愛情いっぱいに育てたいと思っていた。しかしそれは、私自身が思い描く普通の子どもというもので、息子自身の個性に寄り添うものではなかったのである。また「ちゃんと育てたい」とは、今思えば世間からみて立派だと思ってもらえる・・・実は、私自身が母親としてどの様に評価されるかを気にしていたために出てきた気持ちだったのだ。息子にしてみれば自分の事を分かってくれる人がいない、気持ちの伝え方も分からない・・心が休まるときが無いのである。

こうして、母と子の信頼関係は崩れていった。

理解してもらえない日々が続き、どこにも居場所のない息子は、パニックを繰り返すようになった。感覚過敏も強くなり、特に臭いや味覚に過敏で少しでも不快に感じると嘔吐した。10円から500円玉くらいの大きさの円形脱毛症が7~8個もできた。就寝前に何度もトイレに行くようになった。

私はただ、とにかくどんな形でも良いから学校に行って欲しかっただけで、息子を追い詰めるつもりは少しもなかったのだ。なのに、なぜ息子がこうなってしまうの

 

か、当時の私には理解出来なかった。次第に息子の自己肯定感は薄れて行き、学校に行けない自分は生きる資格は無い・・死にたい・・でも自分では怖くて出来ないから殺して欲しい・・・と毎日のように懇願するのである。心身共に疲れていた私は、そんなに言うならいっそのこと・・と良からぬ思いが頭をよぎった。

パニックの後、決まって息子はベッドかソファーで眠るのだが、ある日、いつもの場所にいない。探してみると息子は、寝室の押し入れの片隅で小さく丸まり憔悴しきっていた。眠っているというより気絶していると言った方が正しいかもしれない。

その姿を見て私は愕然とした。たった7年しか生きていないのに、学校に行けないことでこんな苦しい思いをして・・息子の居場所は、心は、こんなに小さくなってしまった・・これではいけない。このままでは息子は本当に死んでしまう。私が息子の味方になって守らなければ、私が変らなければ!・・・命がけで訴える息子の姿が私にそう決意させた。

まず、不登校を認めようと決断した。今までの私は、学校に行くためにはどうしたら良いかということに囚われていたが、それでは息子は救えない。私は息子に「学校に行きたかったらお母さんは止めないよ。でも、行って苦しくなるなら行かなくてもいいからね。」と伝えた。少しでも息子の心を救いたいという思いで、目を見てゆっくりと伝えた。息子も私の目を見てしっかりと聞いていた。あふれそうな涙を必死にこらえながら「うん、わかった。」とだけ言って2階へ上がった。

息子は受診したクリニックで「自閉症スペクトラム障害」と診断された。発達検査から分かる息子の特性の説明を受け、クリニックで行われる「ペアレントトレーニング」に参加した。これは発達障害の子を持つ親が対象で、子どもの行動に焦点を当てて観察し、我が子の特性を理解し、効果的な対応の方法を学び実践する・・というものである。いわゆる「行動療法」で、親が学ぶことで我が子とのコミュニケーションが良好になり、親子関係を良くしていくのが狙いである。私は2週間に1度、半年間通った。また不登校や発達障害の子を持つ親の会に参加し、情報交換をしたりした。

これらは、私にとってとても有意義なものだった。ペアレントトレーニングでは、4人のグループワークで学んだ。同じくらいの子どもを持つ母同士、お互いの困った状況を話し合い意見を聞くこともでき、辛い思いをしているのは私だけではないと知った。親の会では、大人になってから発達障害と診断された人から今までの生きづらさについて聞いたり、不登校を経験している先輩母からの話を聞くことができた。学びが多いことはもちろんだが、その間は義父母の協力により一人で外出することができた。四六時中息子と一緒で疲弊していた私は、そこで慰められ、自身の悩みを聞いてもらえる事がいかに自分にとって大切かを知った。また、道中の車内で一人の時間を満喫し、子どもと少しの間でも距離を置くことで、自分を取り戻すことができた。

 

不登校を認めたことで、息子は少し落ち着いてきた。学校には行っていないが、先生が家に来てくれたり、放課後登校したりした。3年生になった息子は、週に1度通級に、月に2度民間の発達支援教室に通った。どちらも個別指導であったため友達はできなかったが、まずは息子の特性を理解してくれる人のもとで、家族以外にも自分を受け入れてくれる存在が必要なのだと思った。自宅以外の安心できる場所で、先生方と良好な関係を築き体験してきた経験は、息子の大きな財産となったに違いない。

しかし以前よりは落ち着いたものの、まだ気持ちは不安定でちょっとしたことで暴れてしまい、対応に困る事が度々あった。怒りの矛先が妹に向いてしまうと、引き離さなければ危険と感じることもあった。この状態に強い不安を感じた私はクリニックに相談すると、薬物療法も視野に入れた方が良いと言われた。夫と相談し薬物療法に踏み切ろうとしたのだが、息子はそれを拒んだ。医師も本人が納得しなければできず無理強いはできないとのことで、この時は見送ることにした。

息子は幼い頃から寝つきが悪く、不安な事があると就寝時に何度もトイレに行くのだが、3年生の6月頃その数は急増した。原因は2週間後に行われるコミック雑誌のイベントだ。自宅から電車で2時間以上もかかるのだが、本人の強い希望で行くことになり、とても楽しみにしていた。しかし“待つのが苦手”という特性を持つ息子は、イベントまで待ちきれず、不安定になってしまった。行きたくない行事であれば、行かなくて良いと伝えれば済むのだが、今回は一番楽しみにしているイベントのため、そうはいかない。最初は数回だったトイレが日を追うごとに10回、20回と増し、数時間に及び苦しむようになってしまった。トイレは1階にしかないため、間隔が短くなると「なんでトイレが2階に無いんだよ!」と怒鳴り暴れた。ここまでくるとほぼ錯乱状態で、私が対処しても尿はほとんど出ない。止まらぬ尿意に苦しみ、奇声を上げ「助けて!殺す気か!」と叫び続け、最後は「バカヤロー!!」と叫びながら倒れて眠った。時計の針は深夜0時を過ぎており、尿意との戦いは3時間以上に及んだ。しかし眠りが浅く深夜にも何度かトイレに起きるため、息子も私もほとんど眠れなかった。試しに整腸剤をオシッコに効く薬だと飲ませてみたが、2日目には「この薬は効かない」と言って飲まなかった。

1週間後、息子と私はクリニックを受診した。医師からは、この思考回路が定着する前に手を打った方が良い、脳に直接働きかける薬で飲み始めたら長期的に服用すると説明された。今回は息子もその必要性を理解し、素直に承諾した。私は子どもへの薬物療法は避けたかったのだが・・・もう、限界だった。

薬の効果は2日目から現われはじめた。3日目になるとパニックは明らかに治まり、翌朝、息子は夫とイベントに出かけた。その後も日を追うごとに今までの苦しみが楽になっていくのを、息子も自覚しているようだった。

 

薬物療法の開始後、私たち夫婦は話し合い『精神障害者手帳』を取得する決心をした。実は、この手帳を取得すると息子にレッテルを貼ってしまうようでためらっていたのだが、私たちはもうこれだけ困っている。ならば手帳を取得して得られるサービスを利用し、助けをかりる事にしたのだった。

4年生の6月、ようやく手帳が手元に届いた。さっそく「生活サポートサービス」を利用し、月に2回、息子をプールやサイクリングに連れ出してもらった。支援員が我が家まで迎えに来て出かけてくれるので、親の負担がなくとても有り難かった。息子も若いお兄さんの様な存在の人とアニメやゲームの話をしたり、出かけたりするのがとても楽しそうだった。

またこの年は、娘が小学校に入学した。それに伴い私も学校に行ったり、地域の母親とも話す機会が増えた。私が外出するとなぜか息子もついてくるようになり、いつの間にか近所の下級生とゲームの話で盛り上がり、毎日のように途中まで一緒に下校した。そのうち我が家で一緒に遊ぶ約束をしてきたので、私は近所の子どもたちが安心して遊びに来られるように、母親たちに息子の障害について説明した。もしかしたら偏見を持たれるのではないかと思ったのだが、皆さんの理解が得られたのでほっとした。それからは、毎日のように男女問わず子どもが遊びに来るようになり、我が家は子どもたちの笑い声であふれるようになった。息子は誰の手もかりず、自分の力で新しい友だちを手に入れたのである。

5年生になった息子は、足の痛みを訴えたため整形外科を受診した。

扁平内側と診断されリハビリをすることになったのだが、診察で息子の障害や服薬状況を説明したところ、医師から栄養療法についての話を伺った。体内の栄養状態を整えることで、“キレやすい” “寝付きが悪い”などの困った状況が和らぐことがあり、興味があれば相談にのりますと言ってくれた。

薬物療法を始めて2年が経とうとしていた。最近は薬を飲み忘れたり拒否することもあるが、あの時の様にパニックになることはなかった。私は直感で止めるなら今だと思った。主治医に一応説明し、何かあっても息子の人生の責任は私たちでとろうと夫婦で決断した。もちろん息子にも説明し、理解を得た上で栄養療法を開始したのだが、半年ほどでそれも嫌がるようになり、結局リハビリが終わると同時に栄養療法も終了となった。それから数年が経つが、今も息子は何も服用せずに過ごせている。

6年生になると、学校の保健室に一人で登校出来るようになった。週に1度だが、担任や保健室の先生の協力もあり、安心して通えていた。一人での外出に自信がつくと、床屋や本屋など自転車で出かけるようになった。今まではどこに行くのも送迎していたので、成長が感じられて嬉しくなった。

 

進学先は公立の中学校ではなく、電車で30分ほどかかるフリースクールに決めた。集団行動に参加するのも見るのも苦手な息子にとっては、学校以外の少人数制の環境が良いと考えたためである。面談や体験の後親子で話し合い、息子も同意した。しかし、いきなり切り替えるのは難しいので、2学期から週に1度、私が付き添って通う事にした。3学期になると、生活サポートサービスに見守りとして付き添ってもらい、登校の練習をした結果、春からは一人で通えるようになった。

中学生になったある日、私は息子に聞いてみた。

「学校に行けなくなった頃、死にたいって言ったこと覚えてる?」

「覚えてないよ。でも、死ぬとしたらお母さんや家族に1つくらい恩返しをしてからでないと、死ねないよ。」

その言葉に胸が熱くなった。そして今も「行ってきます。」と言って一人で出かける背中は、以前の息子と違ってとても頼もしく見えた。

息子に『死にたい』と言われたとき、私たち夫婦は学校や教育について真剣に考えた。親は子に教育を受けさせる義務があるが、それは公立の学校に行かせることではない。我が子に合った教育を受けさせれば良いと気づくまでにとても時間がかかってしまったように思う。それまでは当たり前すぎて何の疑問も持たずにいたことを改めて考え直し、新しい価値観を得るには、多くのエネルギーと時間が必要だったのだ。

息子が不登校になってから4年くらいは、壊れてしまいそうなほど苦しい日々を過ごしたが、それは、息子が命をかけて伝えようとしたことを必死で受け止めようと頑張った日々でもあった。また、夫をはじめとする家族や友人、先生方などたくさんの助けがあったからこそ、息子と真剣に向き合い続けられたのだと思う。

息子は今、高校1年生。通学制の通信制高校に進学し、毎日通学している。

今を生きるのに精一杯の息子には、自分の人生を振り返ることはまだ出来ないだろう。しかし、いつかきっと “あの時の経験があったからこそ、今の自分がある” と思える日が来ることを、私は信じている。

自分の不登校体験記から(アンケートへのIくんの回答)

自分たちが子どもの教育問題に本格的に関わり始めたのは、それまでの助走期間を脇に置くとしても、子どものいる現場から考える月刊教育雑誌『二コラ』の創刊(1995年6月)からと考えていいかもしれない。そして、世間の目からしてかなりユニークな特色を持ったこの教育雑誌は「日本で最初の不登校専門誌」として、毎日、朝日、読売などの全国紙だけでなく、関東一円の地方紙でも紹介された。
そして、その5年後2000年2月、「ニコラの会」の要望を受けて、不登校の小学生&中学生の学び場&活動の場&居場所として「フリースクール・ぱいでぃあ」が誕生している。
 
それ以来現在に至るまで、様々なタイプの不登校の子ども達がやって来た。当時、既に、幾つかのフリースクールはあったが、フリースクールとは名ばかりでほとんどがフリースペースに近いものだった。つまり、子どもたちが自由に活動できる居場所であった。
しかし、ぱいでぃあの場合はそれに加えて初めから「学習をきっちりとするフリースクール」として出発した。当時、学校の教員は不登校の子どもたちを大抵マイナスに評価していた。その代表的なものは「勉強ができなくて落ちこぼれた」というもの。しかし、実際は違っていた。学校に行かず勉強もしなくなるから結果として落ちこぼれるのであって、その個性が学校の枠からはみ出るものだとしても、子どもたちは皆より良く生きたいという強い願望を持っていた。
 
実際に、不登校になる子どもたちはそういう豊かな個性を持っていたが故に逆に学校に居づらくなったり、その子にとっての肝腎のものが評価されなかったり…ということがが多い。
今回、ここに紹介する子も小学4年生でフリースクール・ぱいでぃあに通いはじめ、その中で次第に持ち前の学力を発揮し出し、どこの進学塾にも通わず(前に通っていた進学塾もやめた)都内の有数の私立進学校に合格し、今回、現役で東大に合格したのである。(大学進学にあたってアドバイスしたのは進路選択に関してだけである。)
つまりはその子どもの資質をよく理解し、その子の特有の個性に寄り添い、適切な支援を行うならば、子どもは自らの持てる能力を存分に引き出すということである。
繰り返すが、それはこの子に限らない。どんな子も自分の個性を花開かせようとしてこの世に人間として生まれてくるということである。因みに、やって来た子どもで100を優に超えるIQの持ち主も何人もいた。が、それもまた個性の多彩さという点では他の不登校の子と大きな違いがあるというものでもない。(そういうことも特に謳っていない)
 
今回、そのⅠクンにも不登校体験談(アンケート)を書いてもらった。それをここで紹介する。改めてその子が当時小学生の眼差しでどう見ていたのかを再確認して面白く思った。(小学校での不登校とその支援、そこでの自己の可能性の開花のための関わりがその後の自己決定なほどとても重要な役割をするということ。その辺りはまだ本人の中では自覚されていないのかもしれない。支援者側からすれば多少残念なことではある。)

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不登校体験談を教えてください(本人用)

 

 不登校の時期:小学5,6年        不登校の期間:約2年     

 

 

質問項目

不登校になったきっかけを教えてください。

引っ越ししてきたばかりの時期で,周囲の生徒と人間関係があまり上手くいかなかったこと,塾で疲労していたことなどが原因.

学校に行かないときは、どのように過ごしていましたか。

勉強,読書など.



その時の気持ちや考えていたことを教えてください。

特に何も思わなかった.漠然とした不安はあった.



保護者や先生にしてほしかったこと、してもらってうれしかったこと、いやだったことを教えてください。

親がいろいろな本を図書館で借りてきてくれたことが嬉しかった.この時期はかなり本(主に小説)を読んでいたと思う.

友人や大人(保護者・先生以外)にしてほしかったこと、してもらってうれしかったこと、いやだったことを教えてください。

引っ越す前の友人と遊んだ時は素直に楽しめた.



学校に行かなかったことについて、今感じていることや考えていることを教えてください。

小学校での学習に意味があったとは思っていないので不登校について全く後悔はない.一方中学,高校では数学や物理について議論し合える友人を得ることができ,自分はそれを非常に楽しんでいたので学校に通う意味は大いにあったと思う.自分は現在大学生だが,COVID-19の感染拡大のためキャンパスに通えない中,改めて勉強において大切なのは先生に教わることよりも学生同士で教え合い,議論することだと切に感じているので,不登校の状況にある人たちでもその恩恵が享受できるような環境整備が必要であると考える.

学校に行っていない人や行かない人に対してのメッセージをお願いします。

各人に様々な事情があるので必ずしも学校に行くことにこだわる必要はないと思います.しかし勉強自体は非常に面白いものであり,本来決して強要されるようなものではない(schoolの語源であるギリシャ語のscholeが本来“余暇”という意であることは有名)ので自分の興味に基づいて自由に学んでほしいと思います.

※枠の大きさは変更していただいても構いません。

不登校アンケート:保護者(Kさん)の声から

フリースクール・ぱいでぃあに通っていた子どもの保護者のアンケートから①

不登校体験談を教えてください(保護者用)

 お子様の不登校の時期:小学2年生  お子様の不登校の期間:7年間(中学卒業まで)

 

質問項目

お子様が不登校になったきっかけを教えてください。

息子に発達障害があるかも知れないと思い始めた頃(小2の夏)から情緒が不安定になり、2学期からは五月雨登校→不登校となっていった。

放課後に遊ぶ友だちが作れず、集団行動が苦手で宿題も苦痛に感じていた様だった。これまでの学校生活でエネルギーを使い果たしたのかも知れない。

お子様が学校に行かないときは、どのように過ごしていましたか。

テレビやDVDを見たり、ゲームセンターに行ったりした。

家の手伝いや軽い運動(ボール投げ、バトミントン)を一緒にやった。

夫と共に発達障害や不登校について学習し、講演会や学習会に積極的に参加した。

医療機関でペアレントトレーニングを受けた。

その時の気持ちや考えていたことを教えてください。

始めの頃は少しの時間でも学校に行って欲しかったが、親が強く望むほど息子は不安定になり、パニックを起こすようになったので、不登校を受け入れる事にした。しかし、引きこもり太っていく姿が心配で、なんとかしなければと思っていた。こうなったのは私の育て方のせいだと自らを責め、うつ状態になった。

お子様に対し、どのように関わったり、声掛けをしたりしていたかを教えてください。

今までは、約束を守らないと怒って説教していた。ペアレントトレーニングで行動療法を学び、短い言葉で簡潔に伝える努力をした。

低くなった自己肯定感を上げるために出来ないことは注視せず、出来ることに注目して褒める回数を増やした。

学校に行かなくなった当初から今に至るまで、お子様や保護者の変化として感じたことを教えてください。

息子がわりと早い段階で不登校になったのが返って良かった。医療機関で受けた発達検査は、対応時のヒントになった。また、発達障害を学んだ事で人は皆違うという事を実感した。モノの見え方、理解の仕方、肌の感じ方など私が思う『普通』の枠に息子も入っていると思っていたが、大きな間違いだと気づいた。人を受け入れる幅が広がり、以前よりも寄り添えるようになったと思う。

子供にしてよかったこと、やらなければよかったことを教えてください。

<良かったこと>

医療機関を受診し特性が分かったこと。通級、民間の発達支援教室、フリースクールに通ったこと。「学校に行って苦しくなるなら行かなくて良いよ」と伝えたこと。周りと比べるのを止めたこと。自宅は心と体を休める場所にすると決めたこと。

<やらなければ良かったこと>

学校に行ったらオモチャを買うなど、モノで釣るようなこと。毎晩「明日は学校どうする?」と問うこと。学習の遅れを心配し自宅で勉強を教えようとしたが、心が乱れている中では難しく、親子関係が悪くなった。

 

不安を感じたとき、どのようなことをしていたか、教えてください。

族やフリースクールの先生に相談したり、カウンセリングを受けたりした。学習会では発達障害や不登校の子どもを持つ親の集まりなので、経験者の話を聞いて参考にした。

学校に行かなかったことについて、今感じていることや考えていることを教えてください。

8歳の息子に「学校に行けないから生きてる資格が無い。死にたいたいからお母さんぼくを殺して」と何度も言われ、私は学校に行く意味を真剣に考えた。

親は子に教育を受けさせる義務があるが、それは公立の学校に行かせる事では無い。我が子に合った教育を受けさせれば良いと考えることで、不登校を受け入れられた。

不登校になり、今まで考えなかった事を考えるようになった。我が子にとって本当に必要な事は何かを夫と話し合い、共有することで家族の絆が深まった。

学校に行っていない人や行かない人に対してのメッセージをお願いします。

息子も私も壊れてしまいそうなほど苦しい日々を過ごしましたが、それは、命をかけて息子が伝えたかった事を必死に受け止めようと頑張った日々でもありました。真剣に向き合い続けることで少しずつ未来が明るくなってきます。

今までにない新しい価値観を手に入れるためには、多くのエネルギーと時間が必要です。悩み苦しんだ先に、きっとかけがえのない大切なモノが得られると信じてください。

※枠の大きさは変更していただいても構いません。

新型コロナウイルスって何だろう?−−涙なしの生物学

▼これは以前に、Mさんからご紹介いただいた動画です。

▼「新型コロナウルスが暴れだしたからと、学校がみんな休校になってしまったけれど、大人たちがそんなに怖がっている新型コロナウイルスって何だろう?両親にきいてもよく分からない」という人がいるのじゃありませんか?そういう疑問を持っている人にいいお知らせです。この説明はとても解かりやすい、ほとんど専門用語を使わない「涙なしの生物学」です。つまり、じっくり見れば誰でも理解できるようになっています。

▼そろそろ休校にも飽きてきて学校再開が待ち遠しくなってきた子どもたちも多いでしょう。でも、学校は5月6日の連休明けまでお休みになりそうです。
そこで、そういう何かやりたくてウズウズしている子どもたちへお薦めのタイムリーな「学校外学習」の教材紹介です。自主勉強用の教材として活用してみてはどうでしょうか。🤔

基本的に「教育」とは、本来、本人が自主的に行うものです。現在、学校教育が国民教育の主流となり、勉強は学校で行うものとなっており、家で勉強するのは宿題くらいのものかも知れません。でも、教育の主体は学びて本人であり、例えばそれが子どもの教育であれば子ども自身が主体であるわけです。学校は両親の委託によって教育を代行しているだけです。教育権は両親にあり、学習する権利が子ども自身にあるわけです。
そういう事情からも、今回の新型コロナウイルス騒動をまたとないチャンスと捉え、自学自主の勉強に取り組んでみられることをお薦めします。

新型コロナウイルスを理解するためのやさしい生物学

先進国とは真逆を行く日本の学校教育のヤバさ

この筆者の論調は、一見、幼稚園教育や小学校等の教育に過剰反応ではとも思われるかも知れませんが、保護者へのこれらの忠告はとても大事なことに思います。

大人の都合からではなく子どもの視点から改めて考え直して見てはどうでしょう。

個より全体が優先されていないか、根性論に毒されていないか、政治教育思想に歪みや偏向はないか、自主性は尊重されているか、軍隊的ではないか…。

幼稚園や学校選択の場合には、学園祭や運動会などでよ〜く確かめたいものですね。
学校に委託する以前に、子どもの教育権や学習権は家庭や子どもの側にあるのですから。

それにしても、いつも側にいて子どもの味方であるはずの先生は何をやってるのでしょうね。個人の教育の理想とは裏腹に単なるシステムのコマにならざるを得ない現実があるのでしょうか。
もしそうだとするならば、日本の学校教育において、それはさらなる問題を含んでいることになりそうですね。

先進国とは真逆を行く「日本のヤバい小学校」

カナダの少年、マスク問題の素敵な発明

コロナウイルスで鬱になる人もいれば(自殺した人までいる!)、そこから素敵なアイディアを掴みだす人もいる。

人間は死以外、「体験して無駄になるものはない」、とも言いますが、見習いたい姿勢ですね

3Dプリンターで作ったマスクのパーツが素敵だ!