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~その先にある光~

 

  ぱいでぃあ卒業生KK君のお母さんKHさん

 

 小学2年生の夏休み、息子は情緒不安定になっていた。

幼い頃から手のかかる子どもであったが、幼稚園まではそれなりに楽しく過ごせていた。しかし、小学生になると沢山の決まり事や宿題、友人関係などで大変だと感じる日々が増えていった。手先が不器用で身支度に時間がかかり、道具や物の管理が出来ず、いつも探し物をしていた。宿題は私が手伝わなければ絶対に終わらない。また宿題を始めると必ず、ひどく不機嫌になった。どんなに嫌でも、忘れて学校で怒られたくないから、やりたくなくてもやらなければいけない。他の子には適量と思われる宿題の量が、私の息子にとってはとても多く感じられた。しかし私は、今は大変でもその内に慣れて来るだろうと楽観視していたが・・・息子の機嫌は悪くなる一方だった。そして、2学期に入ると頭痛や腹痛など体調不良を訴えるようになり、しいだいに教室に入れなくなった。

 

不登校を考える上で理解しなければならないのは、息子の発達障害である。

「手のかかる子」から「発達障害」を疑い始めたと同時に、息子はこれまでの生活でエネルギーを使い果たし不安定になった。発達障害の知識に乏しかった夫と私は、本やネットで勉強しながら日々不安定になっていく息子の対応に追われた。学校や教育センターに相談し、発達検査を受け、医療機関の受診を勧められた。病院で更に検査を受け、診断されたのが12月の事である。

 私は母親として、ちゃんと子どもを育てたいと思っていた。多くは望まない、天才でなくて良い、普通で良い、愛情いっぱいに育てたいと思っていた。しかしそれは、私自身が思い描く普通の子どもというもので、息子自身の個性に寄り添うものではなかったのである。また「ちゃんと育てたい」とは、今思えば世間からみて立派だと思ってもらえる・・・実は、私自身が母親としてどの様に評価されるかを気にしていたために出てきた気持ちだったのだ。息子にしてみれば自分の事を分かってくれる人がいない、気持ちの伝え方も分からない・・心が休まるときが無いのである。

こうして、母と子の信頼関係は崩れていった。

理解してもらえない日々が続き、どこにも居場所のない息子は、パニックを繰り返すようになった。感覚過敏も強くなり、特に臭いや味覚に過敏で少しでも不快に感じると嘔吐した。10円から500円玉くらいの大きさの円形脱毛症が7~8個もできた。就寝前に何度もトイレに行くようになった。

私はただ、とにかくどんな形でも良いから学校に行って欲しかっただけで、息子を追い詰めるつもりは少しもなかったのだ。なのに、なぜ息子がこうなってしまうの

 

か、当時の私には理解出来なかった。次第に息子の自己肯定感は薄れて行き、学校に行けない自分は生きる資格は無い・・死にたい・・でも自分では怖くて出来ないから殺して欲しい・・・と毎日のように懇願するのである。心身共に疲れていた私は、そんなに言うならいっそのこと・・と良からぬ思いが頭をよぎった。

パニックの後、決まって息子はベッドかソファーで眠るのだが、ある日、いつもの場所にいない。探してみると息子は、寝室の押し入れの片隅で小さく丸まり憔悴しきっていた。眠っているというより気絶していると言った方が正しいかもしれない。

その姿を見て私は愕然とした。たった7年しか生きていないのに、学校に行けないことでこんな苦しい思いをして・・息子の居場所は、心は、こんなに小さくなってしまった・・これではいけない。このままでは息子は本当に死んでしまう。私が息子の味方になって守らなければ、私が変らなければ!・・・命がけで訴える息子の姿が私にそう決意させた。

まず、不登校を認めようと決断した。今までの私は、学校に行くためにはどうしたら良いかということに囚われていたが、それでは息子は救えない。私は息子に「学校に行きたかったらお母さんは止めないよ。でも、行って苦しくなるなら行かなくてもいいからね。」と伝えた。少しでも息子の心を救いたいという思いで、目を見てゆっくりと伝えた。息子も私の目を見てしっかりと聞いていた。あふれそうな涙を必死にこらえながら「うん、わかった。」とだけ言って2階へ上がった。

息子は受診したクリニックで「自閉症スペクトラム障害」と診断された。発達検査から分かる息子の特性の説明を受け、クリニックで行われる「ペアレントトレーニング」に参加した。これは発達障害の子を持つ親が対象で、子どもの行動に焦点を当てて観察し、我が子の特性を理解し、効果的な対応の方法を学び実践する・・というものである。いわゆる「行動療法」で、親が学ぶことで我が子とのコミュニケーションが良好になり、親子関係を良くしていくのが狙いである。私は2週間に1度、半年間通った。また不登校や発達障害の子を持つ親の会に参加し、情報交換をしたりした。

これらは、私にとってとても有意義なものだった。ペアレントトレーニングでは、4人のグループワークで学んだ。同じくらいの子どもを持つ母同士、お互いの困った状況を話し合い意見を聞くこともでき、辛い思いをしているのは私だけではないと知った。親の会では、大人になってから発達障害と診断された人から今までの生きづらさについて聞いたり、不登校を経験している先輩母からの話を聞くことができた。学びが多いことはもちろんだが、その間は義父母の協力により一人で外出することができた。四六時中息子と一緒で疲弊していた私は、そこで慰められ、自身の悩みを聞いてもらえる事がいかに自分にとって大切かを知った。また、道中の車内で一人の時間を満喫し、子どもと少しの間でも距離を置くことで、自分を取り戻すことができた。

 

不登校を認めたことで、息子は少し落ち着いてきた。学校には行っていないが、先生が家に来てくれたり、放課後登校したりした。3年生になった息子は、週に1度通級に、月に2度民間の発達支援教室に通った。どちらも個別指導であったため友達はできなかったが、まずは息子の特性を理解してくれる人のもとで、家族以外にも自分を受け入れてくれる存在が必要なのだと思った。自宅以外の安心できる場所で、先生方と良好な関係を築き体験してきた経験は、息子の大きな財産となったに違いない。

しかし以前よりは落ち着いたものの、まだ気持ちは不安定でちょっとしたことで暴れてしまい、対応に困る事が度々あった。怒りの矛先が妹に向いてしまうと、引き離さなければ危険と感じることもあった。この状態に強い不安を感じた私はクリニックに相談すると、薬物療法も視野に入れた方が良いと言われた。夫と相談し薬物療法に踏み切ろうとしたのだが、息子はそれを拒んだ。医師も本人が納得しなければできず無理強いはできないとのことで、この時は見送ることにした。

息子は幼い頃から寝つきが悪く、不安な事があると就寝時に何度もトイレに行くのだが、3年生の6月頃その数は急増した。原因は2週間後に行われるコミック雑誌のイベントだ。自宅から電車で2時間以上もかかるのだが、本人の強い希望で行くことになり、とても楽しみにしていた。しかし“待つのが苦手”という特性を持つ息子は、イベントまで待ちきれず、不安定になってしまった。行きたくない行事であれば、行かなくて良いと伝えれば済むのだが、今回は一番楽しみにしているイベントのため、そうはいかない。最初は数回だったトイレが日を追うごとに10回、20回と増し、数時間に及び苦しむようになってしまった。トイレは1階にしかないため、間隔が短くなると「なんでトイレが2階に無いんだよ!」と怒鳴り暴れた。ここまでくるとほぼ錯乱状態で、私が対処しても尿はほとんど出ない。止まらぬ尿意に苦しみ、奇声を上げ「助けて!殺す気か!」と叫び続け、最後は「バカヤロー!!」と叫びながら倒れて眠った。時計の針は深夜0時を過ぎており、尿意との戦いは3時間以上に及んだ。しかし眠りが浅く深夜にも何度かトイレに起きるため、息子も私もほとんど眠れなかった。試しに整腸剤をオシッコに効く薬だと飲ませてみたが、2日目には「この薬は効かない」と言って飲まなかった。

1週間後、息子と私はクリニックを受診した。医師からは、この思考回路が定着する前に手を打った方が良い、脳に直接働きかける薬で飲み始めたら長期的に服用すると説明された。今回は息子もその必要性を理解し、素直に承諾した。私は子どもへの薬物療法は避けたかったのだが・・・もう、限界だった。

薬の効果は2日目から現われはじめた。3日目になるとパニックは明らかに治まり、翌朝、息子は夫とイベントに出かけた。その後も日を追うごとに今までの苦しみが楽になっていくのを、息子も自覚しているようだった。

 

薬物療法の開始後、私たち夫婦は話し合い『精神障害者手帳』を取得する決心をした。実は、この手帳を取得すると息子にレッテルを貼ってしまうようでためらっていたのだが、私たちはもうこれだけ困っている。ならば手帳を取得して得られるサービスを利用し、助けをかりる事にしたのだった。

4年生の6月、ようやく手帳が手元に届いた。さっそく「生活サポートサービス」を利用し、月に2回、息子をプールやサイクリングに連れ出してもらった。支援員が我が家まで迎えに来て出かけてくれるので、親の負担がなくとても有り難かった。息子も若いお兄さんの様な存在の人とアニメやゲームの話をしたり、出かけたりするのがとても楽しそうだった。

またこの年は、娘が小学校に入学した。それに伴い私も学校に行ったり、地域の母親とも話す機会が増えた。私が外出するとなぜか息子もついてくるようになり、いつの間にか近所の下級生とゲームの話で盛り上がり、毎日のように途中まで一緒に下校した。そのうち我が家で一緒に遊ぶ約束をしてきたので、私は近所の子どもたちが安心して遊びに来られるように、母親たちに息子の障害について説明した。もしかしたら偏見を持たれるのではないかと思ったのだが、皆さんの理解が得られたのでほっとした。それからは、毎日のように男女問わず子どもが遊びに来るようになり、我が家は子どもたちの笑い声であふれるようになった。息子は誰の手もかりず、自分の力で新しい友だちを手に入れたのである。

5年生になった息子は、足の痛みを訴えたため整形外科を受診した。

扁平内側と診断されリハビリをすることになったのだが、診察で息子の障害や服薬状況を説明したところ、医師から栄養療法についての話を伺った。体内の栄養状態を整えることで、“キレやすい” “寝付きが悪い”などの困った状況が和らぐことがあり、興味があれば相談にのりますと言ってくれた。

薬物療法を始めて2年が経とうとしていた。最近は薬を飲み忘れたり拒否することもあるが、あの時の様にパニックになることはなかった。私は直感で止めるなら今だと思った。主治医に一応説明し、何かあっても息子の人生の責任は私たちでとろうと夫婦で決断した。もちろん息子にも説明し、理解を得た上で栄養療法を開始したのだが、半年ほどでそれも嫌がるようになり、結局リハビリが終わると同時に栄養療法も終了となった。それから数年が経つが、今も息子は何も服用せずに過ごせている。

6年生になると、学校の保健室に一人で登校出来るようになった。週に1度だが、担任や保健室の先生の協力もあり、安心して通えていた。一人での外出に自信がつくと、床屋や本屋など自転車で出かけるようになった。今まではどこに行くのも送迎していたので、成長が感じられて嬉しくなった。

 

進学先は公立の中学校ではなく、電車で30分ほどかかるフリースクールに決めた。集団行動に参加するのも見るのも苦手な息子にとっては、学校以外の少人数制の環境が良いと考えたためである。面談や体験の後親子で話し合い、息子も同意した。しかし、いきなり切り替えるのは難しいので、2学期から週に1度、私が付き添って通う事にした。3学期になると、生活サポートサービスに見守りとして付き添ってもらい、登校の練習をした結果、春からは一人で通えるようになった。

中学生になったある日、私は息子に聞いてみた。

「学校に行けなくなった頃、死にたいって言ったこと覚えてる?」

「覚えてないよ。でも、死ぬとしたらお母さんや家族に1つくらい恩返しをしてからでないと、死ねないよ。」

その言葉に胸が熱くなった。そして今も「行ってきます。」と言って一人で出かける背中は、以前の息子と違ってとても頼もしく見えた。

息子に『死にたい』と言われたとき、私たち夫婦は学校や教育について真剣に考えた。親は子に教育を受けさせる義務があるが、それは公立の学校に行かせることではない。我が子に合った教育を受けさせれば良いと気づくまでにとても時間がかかってしまったように思う。それまでは当たり前すぎて何の疑問も持たずにいたことを改めて考え直し、新しい価値観を得るには、多くのエネルギーと時間が必要だったのだ。

息子が不登校になってから4年くらいは、壊れてしまいそうなほど苦しい日々を過ごしたが、それは、息子が命をかけて伝えようとしたことを必死で受け止めようと頑張った日々でもあった。また、夫をはじめとする家族や友人、先生方などたくさんの助けがあったからこそ、息子と真剣に向き合い続けられたのだと思う。

息子は今、高校1年生。通学制の通信制高校に進学し、毎日通学している。

今を生きるのに精一杯の息子には、自分の人生を振り返ることはまだ出来ないだろう。しかし、いつかきっと “あの時の経験があったからこそ、今の自分がある” と思える日が来ることを、私は信じている。

自分の不登校体験記から(アンケートへのIくんの回答)

自分たちが子どもの教育問題に本格的に関わり始めたのは、それまでの助走期間を脇に置くとしても、子どものいる現場から考える月刊教育雑誌『二コラ』の創刊(1995年6月)からと考えていいかもしれない。そして、世間の目からしてかなりユニークな特色を持ったこの教育雑誌は「日本で最初の不登校専門誌」として、毎日、朝日、読売などの全国紙だけでなく、関東一円の地方紙でも紹介された。
そして、その5年後2000年2月、「ニコラの会」の要望を受けて、不登校の小学生&中学生の学び場&活動の場&居場所として「フリースクール・ぱいでぃあ」が誕生している。
 
それ以来現在に至るまで、様々なタイプの不登校の子ども達がやって来た。当時、既に、幾つかのフリースクールはあったが、フリースクールとは名ばかりでほとんどがフリースペースに近いものだった。つまり、子どもたちが自由に活動できる居場所であった。
しかし、ぱいでぃあの場合はそれに加えて初めから「学習をきっちりとするフリースクール」として出発した。当時、学校の教員は不登校の子どもたちを大抵マイナスに評価していた。その代表的なものは「勉強ができなくて落ちこぼれた」というもの。しかし、実際は違っていた。学校に行かず勉強もしなくなるから結果として落ちこぼれるのであって、その個性が学校の枠からはみ出るものだとしても、子どもたちは皆より良く生きたいという強い願望を持っていた。
 
実際に、不登校になる子どもたちはそういう豊かな個性を持っていたが故に逆に学校に居づらくなったり、その子にとっての肝腎のものが評価されなかったり…ということがが多い。
今回、ここに紹介する子も小学4年生でフリースクール・ぱいでぃあに通いはじめ、その中で次第に持ち前の学力を発揮し出し、どこの進学塾にも通わず(前に通っていた進学塾もやめた)都内の有数の私立進学校に合格し、今回、現役で東大に合格したのである。(大学進学にあたってアドバイスしたのは進路選択に関してだけである。)
つまりはその子どもの資質をよく理解し、その子の特有の個性に寄り添い、適切な支援を行うならば、子どもは自らの持てる能力を存分に引き出すということである。
繰り返すが、それはこの子に限らない。どんな子も自分の個性を花開かせようとしてこの世に人間として生まれてくるということである。因みに、やって来た子どもで100を優に超えるIQの持ち主も何人もいた。が、それもまた個性の多彩さという点では他の不登校の子と大きな違いがあるというものでもない。(そういうことも特に謳っていない)
 
今回、そのⅠクンにも不登校体験談(アンケート)を書いてもらった。それをここで紹介する。改めてその子が当時小学生の眼差しでどう見ていたのかを再確認して面白く思った。(小学校での不登校とその支援、そこでの自己の可能性の開花のための関わりがその後の自己決定なほどとても重要な役割をするということ。その辺りはまだ本人の中では自覚されていないのかもしれない。支援者側からすれば多少残念なことではある。)

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不登校体験談を教えてください(本人用)

 

 不登校の時期:小学5,6年        不登校の期間:約2年     

 

 

質問項目

不登校になったきっかけを教えてください。

引っ越ししてきたばかりの時期で,周囲の生徒と人間関係があまり上手くいかなかったこと,塾で疲労していたことなどが原因.

学校に行かないときは、どのように過ごしていましたか。

勉強,読書など.



その時の気持ちや考えていたことを教えてください。

特に何も思わなかった.漠然とした不安はあった.



保護者や先生にしてほしかったこと、してもらってうれしかったこと、いやだったことを教えてください。

親がいろいろな本を図書館で借りてきてくれたことが嬉しかった.この時期はかなり本(主に小説)を読んでいたと思う.

友人や大人(保護者・先生以外)にしてほしかったこと、してもらってうれしかったこと、いやだったことを教えてください。

引っ越す前の友人と遊んだ時は素直に楽しめた.



学校に行かなかったことについて、今感じていることや考えていることを教えてください。

小学校での学習に意味があったとは思っていないので不登校について全く後悔はない.一方中学,高校では数学や物理について議論し合える友人を得ることができ,自分はそれを非常に楽しんでいたので学校に通う意味は大いにあったと思う.自分は現在大学生だが,COVID-19の感染拡大のためキャンパスに通えない中,改めて勉強において大切なのは先生に教わることよりも学生同士で教え合い,議論することだと切に感じているので,不登校の状況にある人たちでもその恩恵が享受できるような環境整備が必要であると考える.

学校に行っていない人や行かない人に対してのメッセージをお願いします。

各人に様々な事情があるので必ずしも学校に行くことにこだわる必要はないと思います.しかし勉強自体は非常に面白いものであり,本来決して強要されるようなものではない(schoolの語源であるギリシャ語のscholeが本来“余暇”という意であることは有名)ので自分の興味に基づいて自由に学んでほしいと思います.

※枠の大きさは変更していただいても構いません。

不登校アンケート:保護者(Kさん)の声から

フリースクール・ぱいでぃあに通っていた子どもの保護者のアンケートから①

不登校体験談を教えてください(保護者用)

 お子様の不登校の時期:小学2年生  お子様の不登校の期間:7年間(中学卒業まで)

 

質問項目

お子様が不登校になったきっかけを教えてください。

息子に発達障害があるかも知れないと思い始めた頃(小2の夏)から情緒が不安定になり、2学期からは五月雨登校→不登校となっていった。

放課後に遊ぶ友だちが作れず、集団行動が苦手で宿題も苦痛に感じていた様だった。これまでの学校生活でエネルギーを使い果たしたのかも知れない。

お子様が学校に行かないときは、どのように過ごしていましたか。

テレビやDVDを見たり、ゲームセンターに行ったりした。

家の手伝いや軽い運動(ボール投げ、バトミントン)を一緒にやった。

夫と共に発達障害や不登校について学習し、講演会や学習会に積極的に参加した。

医療機関でペアレントトレーニングを受けた。

その時の気持ちや考えていたことを教えてください。

始めの頃は少しの時間でも学校に行って欲しかったが、親が強く望むほど息子は不安定になり、パニックを起こすようになったので、不登校を受け入れる事にした。しかし、引きこもり太っていく姿が心配で、なんとかしなければと思っていた。こうなったのは私の育て方のせいだと自らを責め、うつ状態になった。

お子様に対し、どのように関わったり、声掛けをしたりしていたかを教えてください。

今までは、約束を守らないと怒って説教していた。ペアレントトレーニングで行動療法を学び、短い言葉で簡潔に伝える努力をした。

低くなった自己肯定感を上げるために出来ないことは注視せず、出来ることに注目して褒める回数を増やした。

学校に行かなくなった当初から今に至るまで、お子様や保護者の変化として感じたことを教えてください。

息子がわりと早い段階で不登校になったのが返って良かった。医療機関で受けた発達検査は、対応時のヒントになった。また、発達障害を学んだ事で人は皆違うという事を実感した。モノの見え方、理解の仕方、肌の感じ方など私が思う『普通』の枠に息子も入っていると思っていたが、大きな間違いだと気づいた。人を受け入れる幅が広がり、以前よりも寄り添えるようになったと思う。

子供にしてよかったこと、やらなければよかったことを教えてください。

<良かったこと>

医療機関を受診し特性が分かったこと。通級、民間の発達支援教室、フリースクールに通ったこと。「学校に行って苦しくなるなら行かなくて良いよ」と伝えたこと。周りと比べるのを止めたこと。自宅は心と体を休める場所にすると決めたこと。

<やらなければ良かったこと>

学校に行ったらオモチャを買うなど、モノで釣るようなこと。毎晩「明日は学校どうする?」と問うこと。学習の遅れを心配し自宅で勉強を教えようとしたが、心が乱れている中では難しく、親子関係が悪くなった。

 

不安を感じたとき、どのようなことをしていたか、教えてください。

族やフリースクールの先生に相談したり、カウンセリングを受けたりした。学習会では発達障害や不登校の子どもを持つ親の集まりなので、経験者の話を聞いて参考にした。

学校に行かなかったことについて、今感じていることや考えていることを教えてください。

8歳の息子に「学校に行けないから生きてる資格が無い。死にたいたいからお母さんぼくを殺して」と何度も言われ、私は学校に行く意味を真剣に考えた。

親は子に教育を受けさせる義務があるが、それは公立の学校に行かせる事では無い。我が子に合った教育を受けさせれば良いと考えることで、不登校を受け入れられた。

不登校になり、今まで考えなかった事を考えるようになった。我が子にとって本当に必要な事は何かを夫と話し合い、共有することで家族の絆が深まった。

学校に行っていない人や行かない人に対してのメッセージをお願いします。

息子も私も壊れてしまいそうなほど苦しい日々を過ごしましたが、それは、命をかけて息子が伝えたかった事を必死に受け止めようと頑張った日々でもありました。真剣に向き合い続けることで少しずつ未来が明るくなってきます。

今までにない新しい価値観を手に入れるためには、多くのエネルギーと時間が必要です。悩み苦しんだ先に、きっとかけがえのない大切なモノが得られると信じてください。

※枠の大きさは変更していただいても構いません。

新型コロナウイルスって何だろう?−−涙なしの生物学

▼これは以前に、Mさんからご紹介いただいた動画です。

▼「新型コロナウルスが暴れだしたからと、学校がみんな休校になってしまったけれど、大人たちがそんなに怖がっている新型コロナウイルスって何だろう?両親にきいてもよく分からない」という人がいるのじゃありませんか?そういう疑問を持っている人にいいお知らせです。この説明はとても解かりやすい、ほとんど専門用語を使わない「涙なしの生物学」です。つまり、じっくり見れば誰でも理解できるようになっています。

▼そろそろ休校にも飽きてきて学校再開が待ち遠しくなってきた子どもたちも多いでしょう。でも、学校は5月6日の連休明けまでお休みになりそうです。
そこで、そういう何かやりたくてウズウズしている子どもたちへお薦めのタイムリーな「学校外学習」の教材紹介です。自主勉強用の教材として活用してみてはどうでしょうか。🤔

基本的に「教育」とは、本来、本人が自主的に行うものです。現在、学校教育が国民教育の主流となり、勉強は学校で行うものとなっており、家で勉強するのは宿題くらいのものかも知れません。でも、教育の主体は学びて本人であり、例えばそれが子どもの教育であれば子ども自身が主体であるわけです。学校は両親の委託によって教育を代行しているだけです。教育権は両親にあり、学習する権利が子ども自身にあるわけです。
そういう事情からも、今回の新型コロナウイルス騒動をまたとないチャンスと捉え、自学自主の勉強に取り組んでみられることをお薦めします。

新型コロナウイルスを理解するためのやさしい生物学

先進国とは真逆を行く日本の学校教育のヤバさ

この筆者の論調は、一見、幼稚園教育や小学校等の教育に過剰反応ではとも思われるかも知れませんが、保護者へのこれらの忠告はとても大事なことに思います。

大人の都合からではなく子どもの視点から改めて考え直して見てはどうでしょう。

個より全体が優先されていないか、根性論に毒されていないか、政治教育思想に歪みや偏向はないか、自主性は尊重されているか、軍隊的ではないか…。

幼稚園や学校選択の場合には、学園祭や運動会などでよ〜く確かめたいものですね。
学校に委託する以前に、子どもの教育権や学習権は家庭や子どもの側にあるのですから。

それにしても、いつも側にいて子どもの味方であるはずの先生は何をやってるのでしょうね。個人の教育の理想とは裏腹に単なるシステムのコマにならざるを得ない現実があるのでしょうか。
もしそうだとするならば、日本の学校教育において、それはさらなる問題を含んでいることになりそうですね。

先進国とは真逆を行く「日本のヤバい小学校」

カナダの少年、マスク問題の素敵な発明

コロナウイルスで鬱になる人もいれば(自殺した人までいる!)、そこから素敵なアイディアを掴みだす人もいる。

人間は死以外、「体験して無駄になるものはない」、とも言いますが、見習いたい姿勢ですね

3Dプリンターで作ったマスクのパーツが素敵だ!

このいじめ対策、日本ではどうだろう

日本でもやれば効果的かも。ただし、大人社会にいじめがある限り根本的になくなりはしないだろうけどね。

目線のあり方や置きどころが日本とは違うような…

フィンランドのいじめ対策

学校は「どうしても行かなければならない」ところなの?

堀江氏のように「学校は行かなくてもいい」と断言し、一律に決め付けられるか疑問だが、行かないという進路の選択があってもいい。

「学校は勉強するところ、社会性を身につけるところ」というのがその存在理由らしいが、今はその両方とも旬の状態であるか、甚だ疑問だ。学力は学校外で養えるし、疑問を疑問とも思わず理不尽に耐える力が社会性かと思うことさえある。学校の耐用年数はもうとうに過ぎたのでは?

このコロナウイルスで学校が休校になったのは何かの啓示かも知れない。
現代の子どもにとってどんな教育が相応しいのかとくと考える機会にしたいものだ。

学校は「永遠に行かなくていい」ところ?

 

ぱいでぃあで実践した学校外教育とは?ーー卒業生から東大合格者も。でも、みんな同じ仲間の学び&育ち合い−−

▼学校に居場所を失う子どもたち、いわゆる「不登校」の子どもたちの生態は多様である。だが、学校で適正な評価を得られない子どもたちは大別して二つに分けられると思う。一つはいわゆる「落ちこぼれ」と評される子どもたちと、そしてもう一つは、割合は前者ほど多くはないが「浮きこぼれ(噴きこぼれ)」と評される子どもたちである。

▼現在、今は大抵の学校に「特別支援学級」というクラスが設けられていて、ある特定の教科の時はそこに行くことになっている場合が多いようだ。教育行政の側の「出来ない子の対策もしっかりやってますよ」というアピールの場でもあるらしい。だが、一般にあまり評判は良くない。それはその場所が「子どものため」とは言え、やはり区別・差別の空間になっているからだ。「勉強のできる子=いい子」の価値観がどうしても学校教育では支配的だ。
そして、決定的なのが「特殊学級に行く子は出来の悪い子」であるという学校全体の雰囲気である。事実、そこでは本当にほとんどそういう勉強しかしていない。

▼ところで、民間のフリースクールという場では、基本的にそういう区別はない。「フリースクール・ぱいでぃあ」でも、この両方の子どもたちを引き受けていた。そして、一つの空間で同居している。たぶん、ここまではどこのフリースクールでも大体同じではないかと思う。それでもたぶん、不登校の子どもたちにとっては、学校の教室とは違ってずっと快適な空間にはなっているはずだ。だが、やはり不登校という条件では同じように扱われているのに変わりはないだろう。

▼正直言って、教育をビジネスという側面で考えた場合、そうしなければ「経営」が成り立たないのだ。だから、「子どもが主体」と言われたフリースクールTでも、勉強に主体的に取り組める子は取り組むが、他はただそれに従うか、仲間には入らずゲームばかりすることにもなる(そこから「きっちり勉強したい」と回ってきた子がいた)。また、軽度発達障害の子どもたちを専門に扱うS学園でもIQがみんなと合わないとそこを退学してやって来る子がいたりする。
「子ども理解」とか「子どもの味方」と公言しているフリースクールだからといって、実際にそこに通ってみると、必ずしもそこが安住の地ではなく、ちっとも自分らしさを発揮できないという問題も起きて来たりする。もちろん、「相性」としか言えない曖昧な部分もあるのだが。

▼「子ども主体の学校外のフリースクール」とっは言っても、不登校の子どもにとってはやはり様々、額面通りには受け止められない。日本で最初と言われる、不登校の子どもたちの理解と保護を求めた第一弾のフリースクールに続いて、「フリースクール・ぱいでぃあ」は第二弾の形で誕生したフリースクールである。では、第一弾と第二弾のフリースクールでは何が違うのか?
詳しくは別のページで論じたいが、まず自分たちが開始した「日本で最初の不登校専門雑誌・月刊『ニコラ』に取材中に得た「金属バット事件」(父親が息子を金属バットで殴り殺した事件)の生起した大きな問題日本での実践的な「フレネ教育」活動との出会い、そして独自に構想した「遊びの教育学」の具現化この三つが「フリースクール・ぱいでぃあ」設立の動機となっている。
(近頃は、教育ビジネスの視点からの参入はあるが、それは不登校の子どもの目線とはまるで違う。

▼「ぱいでぃあ」は、言い換えれば「遊学統合の、学びと遊びを重視するフリースクール」ということにもなるが、これらの特色を最大限に実現するべく具体的に実行したのが不登校の子どもたちの、いわゆる「落ちこぼれ」と「噴きこぼれ」という二つのタイプを同居させることによって、学校教育では得られない独自の優れた効果を獲得しようというシステムであった。
「学校教育から排除されたに等しいこの二つのタイプの子どもたちを同居させることが一体、可能なのだろうか?」!そう思われた人は多いのではないか?大いに可能なのである。
ただし、この疑問に対して今ここで詳細に語る時間的余裕がない。後日、詳しくそれを語りたいと思う。その代わり、この「ぱいでぃあ」を卒業した子どもたちが現在どうなっているかを例示することで、そのヒントを与えたいと思う。

▼「ぱいでぃあ」を卒業した子どもたちは、小学生の場合は一部の受験組を除いて中学に進学するのが一般的だが、中学を卒業する子どもの場合には、例外を除いて全員が進学である。子どもたちの希望や特性に応じて、県立の全日制高校、パレットスクール、定時制高校、通信制高校、私立高校、民間のサポート校など人それぞれだ。例外的に、国立をねらった子もいれば、中卒で作業所に行った子もいる。だが、今まで行き場のなかった子は一人もいない。
勿論のこと、この子どもたちは学力もバラバラだ。IQ80以下の子もいればIQ140とか、たぶんそれ以上の子も通ってきた(小学生が多い)。その中の一人の子どもの母親が3月11日にメールをくれていた。その子について少し触れたい。

▼その子(仮にS君とする)は「ぱいでぃあ」に4年生、5年生、6年生と通ってきた。それまでは市内の情緒学級、特別支援学級に通っていた子であった。最初は「公立の中学校ではいじめに会う。この子に合った私立の中学校があれば…」という要望だった。だが、その子はぱいでぃあに通い自分づくりに励む中で、今までの表面上の特性とは違う秘めた才能を次第に発揮しだした。そして、新たに獲得した自信によって志望校も変えていった。そして6年生になる段階では学校復帰も可能なほどに立ち直り、学校側の強い要望にも関わらず、S君母子は敢えてぱいでぃあに留まり、ぱいでぃあで中学受験をする選択をしたのである。そして、S君は塾にも一切通わずただぱいでぃあで勉強するだけで(教材は中学受験用トップの問題集を使用)、見事都内の有名進学校に合格したのである。
そして、今回メールを頂いたのは、新型コロナウイルスの件もあり、本郷のキャンバスには合格者を張り出さないと公表していたあの「東大の合否の発表」に関するものだった。今年現役で受験したS君は見事「理一」に合格し、お母さんからの喜びのメールであった。そして、今日19日、改めて電話で母子の喜びの生の声を聞いた。そして、この文章をしたためた。

※ぱいでぃあで実践した「どんな子も同居可能な学校外教育」とはどんなものか、それについては別にページを立てたいと思う。

 

絶対平等のジェノサイドとしてのCOVID-19と日本政府の対応

※小中高等の休校が続きます。学校外教育の場も例外ではないかも。でも、これは子どもの学びを考え直すまたとないチャンスかも。学校に依存しない自立的な学びを考えてみましょう。そのためのできる限りの支援をします。

▼今回の新型コロナウイルス(COVID-19)が何故こうも恐れられたか。インフル、HIV、エボラ…どれとも特定できない、対応が未知の、生物化学兵器にも喩えられるウイルスだったからではないか。

▼それが怖いのは、アメリカの新大陸進出で繰り広げたネイティブアメリカン、いわゆるインディアン虐殺、ジェノサイドの歴史を見ればいいかも。
白人が直接手を下した以上に、現地人にとっては未知の、抵抗力皆無の細菌やウイルスによって滅ぼされたとされている(これには異論もある)からである。

▼今やCOVID-19は人類みな兄弟、人類みな平等でパンデミックを興行中。もしかして、命の平等性を突き付けられて怖がっているのは、今まで特権的な生き方を謳歌してきた連中かもしれない。

▼その中で、日本政府の対応は実に奇妙だ。「一般大衆にはどんどん不安を煽れ!実際いくら死のうと構わない。俺たち特権層には誰も知らない特効薬がある」と言うような振る舞いだ。何故議員達は関係なさそうにマスクもしないのか?(埒外の船後議員が恐れるのはもっともだ。)(中国では日本発のアビガン大量生産でウイルス撲滅だそうな)

▼可哀想に、「特措法」の成立が、世界の狂った為政者たちの末路が示すように、悲惨な終わりの一里塚だということに気付いていない。
望月もその瞬間から新月に向けて崩れだすのだ。老醜は見たくないものだ。