~その先にある光~

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  ぱいでぃあ卒業生KK君のお母さんKHさん

 

 小学2年生の夏休み、息子は情緒不安定になっていた。

幼い頃から手のかかる子どもであったが、幼稚園まではそれなりに楽しく過ごせていた。しかし、小学生になると沢山の決まり事や宿題、友人関係などで大変だと感じる日々が増えていった。手先が不器用で身支度に時間がかかり、道具や物の管理が出来ず、いつも探し物をしていた。宿題は私が手伝わなければ絶対に終わらない。また宿題を始めると必ず、ひどく不機嫌になった。どんなに嫌でも、忘れて学校で怒られたくないから、やりたくなくてもやらなければいけない。他の子には適量と思われる宿題の量が、私の息子にとってはとても多く感じられた。しかし私は、今は大変でもその内に慣れて来るだろうと楽観視していたが・・・息子の機嫌は悪くなる一方だった。そして、2学期に入ると頭痛や腹痛など体調不良を訴えるようになり、しいだいに教室に入れなくなった。

 

不登校を考える上で理解しなければならないのは、息子の発達障害である。

「手のかかる子」から「発達障害」を疑い始めたと同時に、息子はこれまでの生活でエネルギーを使い果たし不安定になった。発達障害の知識に乏しかった夫と私は、本やネットで勉強しながら日々不安定になっていく息子の対応に追われた。学校や教育センターに相談し、発達検査を受け、医療機関の受診を勧められた。病院で更に検査を受け、診断されたのが12月の事である。

 私は母親として、ちゃんと子どもを育てたいと思っていた。多くは望まない、天才でなくて良い、普通で良い、愛情いっぱいに育てたいと思っていた。しかしそれは、私自身が思い描く普通の子どもというもので、息子自身の個性に寄り添うものではなかったのである。また「ちゃんと育てたい」とは、今思えば世間からみて立派だと思ってもらえる・・・実は、私自身が母親としてどの様に評価されるかを気にしていたために出てきた気持ちだったのだ。息子にしてみれば自分の事を分かってくれる人がいない、気持ちの伝え方も分からない・・心が休まるときが無いのである。

こうして、母と子の信頼関係は崩れていった。

理解してもらえない日々が続き、どこにも居場所のない息子は、パニックを繰り返すようになった。感覚過敏も強くなり、特に臭いや味覚に過敏で少しでも不快に感じると嘔吐した。10円から500円玉くらいの大きさの円形脱毛症が7~8個もできた。就寝前に何度もトイレに行くようになった。

私はただ、とにかくどんな形でも良いから学校に行って欲しかっただけで、息子を追い詰めるつもりは少しもなかったのだ。なのに、なぜ息子がこうなってしまうの

 

か、当時の私には理解出来なかった。次第に息子の自己肯定感は薄れて行き、学校に行けない自分は生きる資格は無い・・死にたい・・でも自分では怖くて出来ないから殺して欲しい・・・と毎日のように懇願するのである。心身共に疲れていた私は、そんなに言うならいっそのこと・・と良からぬ思いが頭をよぎった。

パニックの後、決まって息子はベッドかソファーで眠るのだが、ある日、いつもの場所にいない。探してみると息子は、寝室の押し入れの片隅で小さく丸まり憔悴しきっていた。眠っているというより気絶していると言った方が正しいかもしれない。

その姿を見て私は愕然とした。たった7年しか生きていないのに、学校に行けないことでこんな苦しい思いをして・・息子の居場所は、心は、こんなに小さくなってしまった・・これではいけない。このままでは息子は本当に死んでしまう。私が息子の味方になって守らなければ、私が変らなければ!・・・命がけで訴える息子の姿が私にそう決意させた。

まず、不登校を認めようと決断した。今までの私は、学校に行くためにはどうしたら良いかということに囚われていたが、それでは息子は救えない。私は息子に「学校に行きたかったらお母さんは止めないよ。でも、行って苦しくなるなら行かなくてもいいからね。」と伝えた。少しでも息子の心を救いたいという思いで、目を見てゆっくりと伝えた。息子も私の目を見てしっかりと聞いていた。あふれそうな涙を必死にこらえながら「うん、わかった。」とだけ言って2階へ上がった。

息子は受診したクリニックで「自閉症スペクトラム障害」と診断された。発達検査から分かる息子の特性の説明を受け、クリニックで行われる「ペアレントトレーニング」に参加した。これは発達障害の子を持つ親が対象で、子どもの行動に焦点を当てて観察し、我が子の特性を理解し、効果的な対応の方法を学び実践する・・というものである。いわゆる「行動療法」で、親が学ぶことで我が子とのコミュニケーションが良好になり、親子関係を良くしていくのが狙いである。私は2週間に1度、半年間通った。また不登校や発達障害の子を持つ親の会に参加し、情報交換をしたりした。

これらは、私にとってとても有意義なものだった。ペアレントトレーニングでは、4人のグループワークで学んだ。同じくらいの子どもを持つ母同士、お互いの困った状況を話し合い意見を聞くこともでき、辛い思いをしているのは私だけではないと知った。親の会では、大人になってから発達障害と診断された人から今までの生きづらさについて聞いたり、不登校を経験している先輩母からの話を聞くことができた。学びが多いことはもちろんだが、その間は義父母の協力により一人で外出することができた。四六時中息子と一緒で疲弊していた私は、そこで慰められ、自身の悩みを聞いてもらえる事がいかに自分にとって大切かを知った。また、道中の車内で一人の時間を満喫し、子どもと少しの間でも距離を置くことで、自分を取り戻すことができた。

 

不登校を認めたことで、息子は少し落ち着いてきた。学校には行っていないが、先生が家に来てくれたり、放課後登校したりした。3年生になった息子は、週に1度通級に、月に2度民間の発達支援教室に通った。どちらも個別指導であったため友達はできなかったが、まずは息子の特性を理解してくれる人のもとで、家族以外にも自分を受け入れてくれる存在が必要なのだと思った。自宅以外の安心できる場所で、先生方と良好な関係を築き体験してきた経験は、息子の大きな財産となったに違いない。

しかし以前よりは落ち着いたものの、まだ気持ちは不安定でちょっとしたことで暴れてしまい、対応に困る事が度々あった。怒りの矛先が妹に向いてしまうと、引き離さなければ危険と感じることもあった。この状態に強い不安を感じた私はクリニックに相談すると、薬物療法も視野に入れた方が良いと言われた。夫と相談し薬物療法に踏み切ろうとしたのだが、息子はそれを拒んだ。医師も本人が納得しなければできず無理強いはできないとのことで、この時は見送ることにした。

息子は幼い頃から寝つきが悪く、不安な事があると就寝時に何度もトイレに行くのだが、3年生の6月頃その数は急増した。原因は2週間後に行われるコミック雑誌のイベントだ。自宅から電車で2時間以上もかかるのだが、本人の強い希望で行くことになり、とても楽しみにしていた。しかし“待つのが苦手”という特性を持つ息子は、イベントまで待ちきれず、不安定になってしまった。行きたくない行事であれば、行かなくて良いと伝えれば済むのだが、今回は一番楽しみにしているイベントのため、そうはいかない。最初は数回だったトイレが日を追うごとに10回、20回と増し、数時間に及び苦しむようになってしまった。トイレは1階にしかないため、間隔が短くなると「なんでトイレが2階に無いんだよ!」と怒鳴り暴れた。ここまでくるとほぼ錯乱状態で、私が対処しても尿はほとんど出ない。止まらぬ尿意に苦しみ、奇声を上げ「助けて!殺す気か!」と叫び続け、最後は「バカヤロー!!」と叫びながら倒れて眠った。時計の針は深夜0時を過ぎており、尿意との戦いは3時間以上に及んだ。しかし眠りが浅く深夜にも何度かトイレに起きるため、息子も私もほとんど眠れなかった。試しに整腸剤をオシッコに効く薬だと飲ませてみたが、2日目には「この薬は効かない」と言って飲まなかった。

1週間後、息子と私はクリニックを受診した。医師からは、この思考回路が定着する前に手を打った方が良い、脳に直接働きかける薬で飲み始めたら長期的に服用すると説明された。今回は息子もその必要性を理解し、素直に承諾した。私は子どもへの薬物療法は避けたかったのだが・・・もう、限界だった。

薬の効果は2日目から現われはじめた。3日目になるとパニックは明らかに治まり、翌朝、息子は夫とイベントに出かけた。その後も日を追うごとに今までの苦しみが楽になっていくのを、息子も自覚しているようだった。

 

薬物療法の開始後、私たち夫婦は話し合い『精神障害者手帳』を取得する決心をした。実は、この手帳を取得すると息子にレッテルを貼ってしまうようでためらっていたのだが、私たちはもうこれだけ困っている。ならば手帳を取得して得られるサービスを利用し、助けをかりる事にしたのだった。

4年生の6月、ようやく手帳が手元に届いた。さっそく「生活サポートサービス」を利用し、月に2回、息子をプールやサイクリングに連れ出してもらった。支援員が我が家まで迎えに来て出かけてくれるので、親の負担がなくとても有り難かった。息子も若いお兄さんの様な存在の人とアニメやゲームの話をしたり、出かけたりするのがとても楽しそうだった。

またこの年は、娘が小学校に入学した。それに伴い私も学校に行ったり、地域の母親とも話す機会が増えた。私が外出するとなぜか息子もついてくるようになり、いつの間にか近所の下級生とゲームの話で盛り上がり、毎日のように途中まで一緒に下校した。そのうち我が家で一緒に遊ぶ約束をしてきたので、私は近所の子どもたちが安心して遊びに来られるように、母親たちに息子の障害について説明した。もしかしたら偏見を持たれるのではないかと思ったのだが、皆さんの理解が得られたのでほっとした。それからは、毎日のように男女問わず子どもが遊びに来るようになり、我が家は子どもたちの笑い声であふれるようになった。息子は誰の手もかりず、自分の力で新しい友だちを手に入れたのである。

5年生になった息子は、足の痛みを訴えたため整形外科を受診した。

扁平内側と診断されリハビリをすることになったのだが、診察で息子の障害や服薬状況を説明したところ、医師から栄養療法についての話を伺った。体内の栄養状態を整えることで、“キレやすい” “寝付きが悪い”などの困った状況が和らぐことがあり、興味があれば相談にのりますと言ってくれた。

薬物療法を始めて2年が経とうとしていた。最近は薬を飲み忘れたり拒否することもあるが、あの時の様にパニックになることはなかった。私は直感で止めるなら今だと思った。主治医に一応説明し、何かあっても息子の人生の責任は私たちでとろうと夫婦で決断した。もちろん息子にも説明し、理解を得た上で栄養療法を開始したのだが、半年ほどでそれも嫌がるようになり、結局リハビリが終わると同時に栄養療法も終了となった。それから数年が経つが、今も息子は何も服用せずに過ごせている。

6年生になると、学校の保健室に一人で登校出来るようになった。週に1度だが、担任や保健室の先生の協力もあり、安心して通えていた。一人での外出に自信がつくと、床屋や本屋など自転車で出かけるようになった。今まではどこに行くのも送迎していたので、成長が感じられて嬉しくなった。

 

進学先は公立の中学校ではなく、電車で30分ほどかかるフリースクールに決めた。集団行動に参加するのも見るのも苦手な息子にとっては、学校以外の少人数制の環境が良いと考えたためである。面談や体験の後親子で話し合い、息子も同意した。しかし、いきなり切り替えるのは難しいので、2学期から週に1度、私が付き添って通う事にした。3学期になると、生活サポートサービスに見守りとして付き添ってもらい、登校の練習をした結果、春からは一人で通えるようになった。

中学生になったある日、私は息子に聞いてみた。

「学校に行けなくなった頃、死にたいって言ったこと覚えてる?」

「覚えてないよ。でも、死ぬとしたらお母さんや家族に1つくらい恩返しをしてからでないと、死ねないよ。」

その言葉に胸が熱くなった。そして今も「行ってきます。」と言って一人で出かける背中は、以前の息子と違ってとても頼もしく見えた。

息子に『死にたい』と言われたとき、私たち夫婦は学校や教育について真剣に考えた。親は子に教育を受けさせる義務があるが、それは公立の学校に行かせることではない。我が子に合った教育を受けさせれば良いと気づくまでにとても時間がかかってしまったように思う。それまでは当たり前すぎて何の疑問も持たずにいたことを改めて考え直し、新しい価値観を得るには、多くのエネルギーと時間が必要だったのだ。

息子が不登校になってから4年くらいは、壊れてしまいそうなほど苦しい日々を過ごしたが、それは、息子が命をかけて伝えようとしたことを必死で受け止めようと頑張った日々でもあった。また、夫をはじめとする家族や友人、先生方などたくさんの助けがあったからこそ、息子と真剣に向き合い続けられたのだと思う。

息子は今、高校1年生。通学制の通信制高校に進学し、毎日通学している。

今を生きるのに精一杯の息子には、自分の人生を振り返ることはまだ出来ないだろう。しかし、いつかきっと “あの時の経験があったからこそ、今の自分がある” と思える日が来ることを、私は信じている。

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