ぱいでぃあで実践した学校外教育とは?ーー卒業生から東大合格者も。でも、みんな同じ仲間の学び&育ち合い−−

▼学校に居場所を失う子どもたち、いわゆる「不登校」の子どもたちの生態は多様である。だが、学校で適正な評価を得られない子どもたちは大別して二つに分けられると思う。一つはいわゆる「落ちこぼれ」と評される子どもたちと、そしてもう一つは、割合は前者ほど多くはないが「浮きこぼれ(噴きこぼれ)」と評される子どもたちである。

▼現在、今は大抵の学校に「特別支援学級」というクラスが設けられていて、ある特定の教科の時はそこに行くことになっている場合が多いようだ。教育行政の側の「出来ない子の対策もしっかりやってますよ」というアピールの場でもあるらしい。だが、一般にあまり評判は良くない。それはその場所が「子どものため」とは言え、やはり区別・差別の空間になっているからだ。「勉強のできる子=いい子」の価値観がどうしても学校教育では支配的だ。
そして、決定的なのが「特殊学級に行く子は出来の悪い子」であるという学校全体の雰囲気である。事実、そこでは本当にほとんどそういう勉強しかしていない。

▼ところで、民間のフリースクールという場では、基本的にそういう区別はない。「フリースクール・ぱいでぃあ」でも、この両方の子どもたちを引き受けていた。そして、一つの空間で同居している。たぶん、ここまではどこのフリースクールでも大体同じではないかと思う。それでもたぶん、不登校の子どもたちにとっては、学校の教室とは違ってずっと快適な空間にはなっているはずだ。だが、やはり不登校という条件では同じように扱われているのに変わりはないだろう。

▼正直言って、教育をビジネスという側面で考えた場合、そうしなければ「経営」が成り立たないのだ。だから、「子どもが主体」と言われたフリースクールTでも、勉強に主体的に取り組める子は取り組むが、他はただそれに従うか、仲間には入らずゲームばかりすることにもなる(そこから「きっちり勉強したい」と回ってきた子がいた)。また、軽度発達障害の子どもたちを専門に扱うS学園でもIQがみんなと合わないとそこを退学してやって来る子がいたりする。
「子ども理解」とか「子どもの味方」と公言しているフリースクールだからといって、実際にそこに通ってみると、必ずしもそこが安住の地ではなく、ちっとも自分らしさを発揮できないという問題も起きて来たりする。もちろん、「相性」としか言えない曖昧な部分もあるのだが。

▼「子ども主体の学校外のフリースクール」とっは言っても、不登校の子どもにとってはやはり様々、額面通りには受け止められない。日本で最初と言われる、不登校の子どもたちの理解と保護を求めた第一弾のフリースクールに続いて、「フリースクール・ぱいでぃあ」は第二弾の形で誕生したフリースクールである。では、第一弾と第二弾のフリースクールでは何が違うのか?
詳しくは別のページで論じたいが、まず自分たちが開始した「日本で最初の不登校専門雑誌・月刊『ニコラ』に取材中に得た「金属バット事件」(父親が息子を金属バットで殴り殺した事件)の生起した大きな問題日本での実践的な「フレネ教育」活動との出会い、そして独自に構想した「遊びの教育学」の具現化この三つが「フリースクール・ぱいでぃあ」設立の動機となっている。
(近頃は、教育ビジネスの視点からの参入はあるが、それは不登校の子どもの目線とはまるで違う。

▼「ぱいでぃあ」は、言い換えれば「遊学統合の、学びと遊びを重視するフリースクール」ということにもなるが、これらの特色を最大限に実現するべく具体的に実行したのが不登校の子どもたちの、いわゆる「落ちこぼれ」と「噴きこぼれ」という二つのタイプを同居させることによって、学校教育では得られない独自の優れた効果を獲得しようというシステムであった。
「学校教育から排除されたに等しいこの二つのタイプの子どもたちを同居させることが一体、可能なのだろうか?」!そう思われた人は多いのではないか?大いに可能なのである。
ただし、この疑問に対して今ここで詳細に語る時間的余裕がない。後日、詳しくそれを語りたいと思う。その代わり、この「ぱいでぃあ」を卒業した子どもたちが現在どうなっているかを例示することで、そのヒントを与えたいと思う。

▼「ぱいでぃあ」を卒業した子どもたちは、小学生の場合は一部の受験組を除いて中学に進学するのが一般的だが、中学を卒業する子どもの場合には、例外を除いて全員が進学である。子どもたちの希望や特性に応じて、県立の全日制高校、パレットスクール、定時制高校、通信制高校、私立高校、民間のサポート校など人それぞれだ。例外的に、国立をねらった子もいれば、中卒で作業所に行った子もいる。だが、今まで行き場のなかった子は一人もいない。
勿論のこと、この子どもたちは学力もバラバラだ。IQ80以下の子もいればIQ140とか、たぶんそれ以上の子も通ってきた(小学生が多い)。その中の一人の子どもの母親が3月11日にメールをくれていた。その子について少し触れたい。

▼その子(仮にS君とする)は「ぱいでぃあ」に4年生、5年生、6年生と通ってきた。それまでは市内の情緒学級、特別支援学級に通っていた子であった。最初は「公立の中学校ではいじめに会う。この子に合った私立の中学校があれば…」という要望だった。だが、その子はぱいでぃあに通い自分づくりに励む中で、今までの表面上の特性とは違う秘めた才能を次第に発揮しだした。そして、新たに獲得した自信によって志望校も変えていった。そして6年生になる段階では学校復帰も可能なほどに立ち直り、学校側の強い要望にも関わらず、S君母子は敢えてぱいでぃあに留まり、ぱいでぃあで中学受験をする選択をしたのである。そして、S君は塾にも一切通わずただぱいでぃあで勉強するだけで(教材は中学受験用トップの問題集を使用)、見事都内の有名進学校に合格したのである。
そして、今回メールを頂いたのは、新型コロナウイルスの件もあり、本郷のキャンバスには合格者を張り出さないと公表していたあの「東大の合否の発表」に関するものだった。今年現役で受験したS君は見事「理一」に合格し、お母さんからの喜びのメールであった。そして、今日19日、改めて電話で母子の喜びの生の声を聞いた。そして、この文章をしたためた。

※ぱいでぃあで実践した「どんな子も同居可能な学校外教育」とはどんなものか、それについては別にページを立てたいと思う。

 

絶対平等のジェノサイドとしてのCOVID-19と日本政府の対応

※小中高等の休校が続きます。学校外教育の場も例外ではないかも。でも、これは子どもの学びを考え直すまたとないチャンスかも。学校に依存しない自立的な学びを考えてみましょう。そのためのできる限りの支援をします。

▼今回の新型コロナウイルス(COVID-19)が何故こうも恐れられたか。インフル、HIV、エボラ…どれとも特定できない、対応が未知の、生物化学兵器にも喩えられるウイルスだったからではないか。

▼それが怖いのは、アメリカの新大陸進出で繰り広げたネイティブアメリカン、いわゆるインディアン虐殺、ジェノサイドの歴史を見ればいいかも。
白人が直接手を下した以上に、現地人にとっては未知の、抵抗力皆無の細菌やウイルスによって滅ぼされたとされている(これには異論もある)からである。

▼今やCOVID-19は人類みな兄弟、人類みな平等でパンデミックを興行中。もしかして、命の平等性を突き付けられて怖がっているのは、今まで特権的な生き方を謳歌してきた連中かもしれない。

▼その中で、日本政府の対応は実に奇妙だ。「一般大衆にはどんどん不安を煽れ!実際いくら死のうと構わない。俺たち特権層には誰も知らない特効薬がある」と言うような振る舞いだ。何故議員達は関係なさそうにマスクもしないのか?(埒外の船後議員が恐れるのはもっともだ。)(中国では日本発のアビガン大量生産でウイルス撲滅だそうな)

▼可哀想に、「特措法」の成立が、世界の狂った為政者たちの末路が示すように、悲惨な終わりの一里塚だということに気付いていない。
望月もその瞬間から新月に向けて崩れだすのだ。老醜は見たくないものだ。

何のために外国語を学ぶのかな…

原爆被爆者の貴重な生き残り。その彼女が語る英語は拙いが、語るべきものを的確に鋭く語る。

小学校から導入されたネイチブ流の語りにあごがれる流暢だが表層的な隷属的な英語学習とは異なる。

何のために外国語を学ぶのか−−今一度考えたい。

この真摯なる言葉に耳傾けよう。

 

新型コロナウイルス騒動、どこかおかしい

facebookの「子どもフォーラム」から

▼新型コロナウイルス騒動、どこかおかしいと思いませんか?

▼例えば、新型コロナウイルス感染拡大が騒がれ始めたアメリカでは、既にその前に、インフルエンザの患者数2600万人、死者14000人を出しています。日本でも近年インフルエンザでの死者数は3000人にのぼるとか。

▼ところが、日本の新型コロナウイルスの死者はわかっているところで僅か(失礼m(_ _)m)6人。
これが改ざんや隠蔽のない正確なデータであるとするならば、インフルと比較して雲泥の差で少ない。感染力も大差なさそうだ。なのに政府もマスコミも、上から下までの大騒ぎ。なぜ?

▼そこに安倍首相による突然の小中高等の学校への休校要請がさらに拍車をかけた。まるでインフルによる3000人の死者は問題ではなく、6名の新型コロナウイルスによる死者こそが何よりも重要なのだとでも言うように。
それなのに、最も懸念される満員の通勤電車はいつも通り何の防御対策もなく運行している。(新型コロナウイルスは青少年よりもむしろ中高年者が危ないとか)

▼これ、どこかおかしくないか?もし、新型コロナウイルスの疑いがあれば、インフルと同じように自主規制し、インフルと同じように扱えばそれほど拡散しないのではないのか。

▼政府の取るべき態度も、いたずらに根拠の希薄な不安を国民に煽るのではなく、まずは率先して「怖がらなくてもいいよ。大丈夫だから。」と国民に呼びかけ、その対応はきっちりと責任をもって行えばよいことではないのか?

▼安倍政権はなぜそれをしない?まるでパンデミックになるのを期待しているのかとさえ思う投げやりな対応だ。
その目的は一体何なのか、人をトリックにかけたマジジャンの手元を見る思いで今後を見守っている。

未来の日本は君たちの手の中に

渋谷の街を、安倍政権批判の5000人の高校生のデモ隊が練り歩く

※ただし、2015/08/03の公開動画だ

学校から解放された子どもたち

▼尾木ママの言はまさに教育者の感覚ではその通り。だが、「でも、だから何?」という気もしないわけでもない。そんなこと「大変だ!」と殊更に問題にしているのは、もしかして「教育」を「狭育」とか「狂育」とかと取り違えている人だけじゃないかと思いもするのだ。

▼今日、自分は時間の許す限り、電動バイクで近辺を回ってみた。そして、そこに普段はあまり見かけない光景をいくつも見つけた。
中小の公園の多くが、たくさんのちびっ子たちや若いお母さんで溢れていたのである。親はマスク姿が多いが子どもは殆どしていない。

▼つまり、誰も家になんか閉じこもっていないのだ。突然やってきた学校の休み、学校からの解放を子どもたちは存分に味わっているように見えた。心配しているのは付き添いの親たち(たぶん勤めが休みになったのだろう)だけだ。

▼こういう光景はずっと前、自分が子どもだった頃、「三丁目の夕日」の頃には至極当たり前だった光景だ。その頃はこんなに家が立ち込んでいず、どこにも空き地や原っぱがあった。放課後の約束などせずとも、グローブとバットを持って友達の家に行き「○○くん、遊ぼう〜」と言えば大抵日が沈むまで遊べた。

▼それがいつからだろう、空き地や原っぱが段々と消えていき、子どもの遊びに大人が介入してきて指導者となった。やがて子どものやること全てが大人のビジネスとなり有料となった。そして、子どもは大人の管理下で指導を受ける未熟者と見做されるようになった。

▼安倍首相の、文科省とも厚生省とも事前の相談もない、唐突な勘違いも甚だしい学校教育への介入は、案の定、教育界だけでなく産業界へも多大な混乱を引き起こすこととなった。特に、小学生以下の子を持つ親にもたらした衝撃は大きかった。

▼ただ、その中で、当の心配の対象である筈の子どもたちだけは、降って湧いたような長期の休暇に大喜びである。春休みが夏休みのように大型化したのだから。
それに新型コロナウイルスはよく寝てよく食べてさえいれば(子ども食堂のような場合を除く。子どもの貧困って言うけど、子どものせいじゃない)、インフルエンザよりよっぽど安全なのだから。

▼尾木ママの心配も分からんわけじゃないが、「そんなこと、長い目で見ればどうってことない!」というのが本当ではないか?
この時期、学業が1ヶ月くらいできなかったからと言って大差あるまい。むしろその時遊んだ経験が後々生かされる学びにならないとも限らない。

▼大人になってしまえば、そんなロスなど大したことではないかも。(小学校6年生の1学期から約1年間以上サナトリウムで過ごして、殆ど小学校6年生の経験を持たない自分が言うのだから、大体確かだろう)

▼そんなこんなで、安倍首相の学校教育への間違った要請が子どもたちへの(束の間ではあろうが)思わぬプレゼントになっている光景を観て、微笑ましく思ったことであった。

尾木ママが休校について語ったこと

「小学生にもわかる新型コロナウイルス」の話について

これ、とっても大事かも。
安倍首相も誤解しているようだが、新型コロナウイルスの感染&犠牲者の殆どは高齢者や病弱者であって、幼少の子どもたちではない。
だから、子どもたちには何よりも正しい予防の仕方を体得させることが必要だろう。

そういう意味からも、文科省やその他の省とも相談せず、唐突な形で小中高の休校を要請した安倍首相のやり方は大いに問題だ。
後手後手の対策の後、さらにこの無用な混乱。口先だけの「責任は私に…」で済む話じゃない。

小学生にもわかる新型コロナウイルス 藤田医科大が教材をネット公開

あまりにも唐突で無知な首相の要請発言

  • ▼2月27日、新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で安倍首相は、3月2日から春休みまで全国の小学校、中学校、高校、特別支援学校に休校を要請すると表明した。だが、その発表はあまりにも突然で、唐突とも言うべきもので、各方面から賛否両論の侃々諤々の声が巻き起こっている。圧倒的に多いのは安倍批判の言辞か。

▼前触れなしの突然の方針発表に、保護者や教育委員会の関係者に衝撃が広がった「テレビのニュースで知った」(三重県教委)とか、「共働きなのにパニックだ」とか、「生活もかかっているのに……」(時給制のパート)とか、「ツイッター」上でも子どもや保護者からの混乱の声が相次ぐ。
「社会が崩壊しかねない」(千葉市長)との声も。さらにまた、子どもを預けられない医療や福祉の関係者、警察・消防職員らの家庭からの声もある。

▼総じて「あまりにも急すぎ(愛知県)て対応のしようがない」、「首相は庶民の生活を知らなさ過ぎる」と言うことか。今まで「後手後手」「指導力ゼロ」とか言われた(アメリカからも揶揄された)劣勢を跳ね返す起死回生のパフォーマンスだったのかも知れないが、さらにその管理能力のなさをさらけ出すことになったようだ。

▼小中高を管理する文科省までが寝耳に水のドタバタ喜劇を演じている。「学校の設置者の判断」に任せると言うが、そうすれば中央からの一元管理はさらに難しくなろう。いや、中央が仕切る学校教育は随分前から耐用年数が過ぎ、風前の灯火だったのかも。もしかすると、これは図らずも用意された天の采配かも知れない。

免職に値する教師たち

あまりにも教育関連の不祥事が多過ぎて、普段は載せないのだが…。これは度を超えている。懲戒処分の制度がコケにされている。
「つい…」「思わず…」のレベルじゃない。

はっきり言って免職以外なしでしょう。こういう教師は児童生徒のそばにいてほしくない。

何のための学校教育なのか、学習権・教育権の再考が必要だろう。主権者教育を実現するために。

 

教育的配慮という名の学校側のイジメ・虐待では?

いまさら中学女子の制服にスラックスも認めたことが新聞のニュースになることがおかしい。感覚がズレている。しかもそれを驚きを持って迎える教委まである。


今流に言うなら今までの不許可は「教育に名を借りたイジメ、虐待」であろう。そういう認識が日本の教育界にはない。

八戸の2中学校/今春からスラックス着用本格導入/「タイツ、ストッキングは防寒に限界」