学校から解放された子どもたち

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▼尾木ママの言はまさに教育者の感覚ではその通り。だが、「でも、だから何?」という気もしないわけでもない。そんなこと「大変だ!」と殊更に問題にしているのは、もしかして「教育」を「狭育」とか「狂育」とかと取り違えている人だけじゃないかと思いもするのだ。

▼今日、自分は時間の許す限り、電動バイクで近辺を回ってみた。そして、そこに普段はあまり見かけない光景をいくつも見つけた。
中小の公園の多くが、たくさんのちびっ子たちや若いお母さんで溢れていたのである。親はマスク姿が多いが子どもは殆どしていない。

▼つまり、誰も家になんか閉じこもっていないのだ。突然やってきた学校の休み、学校からの解放を子どもたちは存分に味わっているように見えた。心配しているのは付き添いの親たち(たぶん勤めが休みになったのだろう)だけだ。

▼こういう光景はずっと前、自分が子どもだった頃、「三丁目の夕日」の頃には至極当たり前だった光景だ。その頃はこんなに家が立ち込んでいず、どこにも空き地や原っぱがあった。放課後の約束などせずとも、グローブとバットを持って友達の家に行き「○○くん、遊ぼう〜」と言えば大抵日が沈むまで遊べた。

▼それがいつからだろう、空き地や原っぱが段々と消えていき、子どもの遊びに大人が介入してきて指導者となった。やがて子どものやること全てが大人のビジネスとなり有料となった。そして、子どもは大人の管理下で指導を受ける未熟者と見做されるようになった。

▼安倍首相の、文科省とも厚生省とも事前の相談もない、唐突な勘違いも甚だしい学校教育への介入は、案の定、教育界だけでなく産業界へも多大な混乱を引き起こすこととなった。特に、小学生以下の子を持つ親にもたらした衝撃は大きかった。

▼ただ、その中で、当の心配の対象である筈の子どもたちだけは、降って湧いたような長期の休暇に大喜びである。春休みが夏休みのように大型化したのだから。
それに新型コロナウイルスはよく寝てよく食べてさえいれば(子ども食堂のような場合を除く。子どもの貧困って言うけど、子どものせいじゃない)、インフルエンザよりよっぽど安全なのだから。

▼尾木ママの心配も分からんわけじゃないが、「そんなこと、長い目で見ればどうってことない!」というのが本当ではないか?
この時期、学業が1ヶ月くらいできなかったからと言って大差あるまい。むしろその時遊んだ経験が後々生かされる学びにならないとも限らない。

▼大人になってしまえば、そんなロスなど大したことではないかも。(小学校6年生の1学期から約1年間以上サナトリウムで過ごして、殆ど小学校6年生の経験を持たない自分が言うのだから、大体確かだろう)

▼そんなこんなで、安倍首相の学校教育への間違った要請が子どもたちへの(束の間ではあろうが)思わぬプレゼントになっている光景を観て、微笑ましく思ったことであった。

尾木ママが休校について語ったこと

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