▼一時期、教育関係者や子どもの問題等に携わる人達の間で、「母原病」という言葉がもてはやされたことがある。1979年に精神科医の久徳重盛さんが発表した精神病の概念である。一時期、そのことを書いた書籍『母原病–母親が原因でふえる子どもの異常』(サンマーク出版・久徳重盛著)は日本で大ベストセラーとなった。 そこには「子どもの登校拒否(≒不登校)は母親の接し方に原因がある」とされた。それで多くの母親が自責の念に駆り立てられた。「不登校の多くは情緒不安の子どもに問題がある」とされた時代の産物であった。
▼しかし、当然と言えば当然ながら、それには激しい批判が噴出した。「親が子どもの病理である」という指摘は、確かに世に警鐘を鳴らす重要な問題提起ではあったが、「子育ては母親の役割」と言われた時代であったこともあり、不登校という子どもの現象を全て母親の母親の責任にしてしまったことは否めない。「父子家庭」はどうなのかという問題もあった。しかも今は「家庭は女が守るもの」ということは実態にそぐわず神話とさえなっている。では、その問題は払拭されたのかと言えば、決してそうではないようだ。
今はもう「家庭は女が守るもの」 とは誰も言わないが(かつては母親は家にいて父親が仕事に出れば家計が成り立ったが、今は男女機会均等の考えもあり一方では女性も積極的に社会に進出するようになった)、子どもの不登校の問題は一定の社会的認知は得たとは言っても依然としてあり、さらに以前ほど登校刺激が過度ではなくなったこともあり、比較的安定した精神状態で家にいることも多くなった。家人もあまり強くは不登校を問題にしなくなった。しかし、そこで新たな問題も生じるようになって来た。
▼ある識者に言わせれば、不登校が家人からあまり問題にされなくなったどころか、むしろ昼間両親が家を開けている間のヤモリ(家守り)として重宝がられるようにさえなっているのだとか。そういう形での「何となく不登校」が、「やむにやまれずの不登校」に負けず劣らず増えているのだという。そして、そういう不登校の中には長期化する場合も多いとか。周りからは何が問題なのかはよく見えないし、大きな抵抗感があるようにも見えないが、何言にも長続きせず簡単にリタイアしてしまう。
▼ただ、「今の不登校は—」と一括りにしにくいのが今の不登校の特徴の一つかも知れないとも思っている。一方には不登校で苦しむ人がいる一方、明るい不登校等と言って不登校をさほど苦にしないケースも増えている。さらにホームスクーリングル(家庭=学校)だけでなくアンスクーリング(脱・学校)という形で学校を離れるケースも増えつつある。また、スマホやタブレットなどのICT機器の進化によって学年や国を超えた学習機会も広がっている。
▼さて、そこで、ここで出来合いの答えを用意するのではなく、実際の不登校の当事者や教育関係者、スクールの運営者、関心のある方々に聞いてみたい。今、不登校をどう捉えればいいのだろうか。
そこで皆さんからいろいろなお考えをお聞かせいただきたいと思う。