月別アーカイブ: 2014年5月

戦後の文部省発行の『生徒指導の手引き』から思うこと—不登校はどこから?

▼もう20年来日本の学校教育からこぼれ落ちる(はみ出る)「不登校(登校拒否)」の問題を扱っていて思うこと。全国の不登校の子ども達の数値に多少の変化は見られるが、大元はあまり変わってはいないのではないか。戦後、日本が高度成長期に突入し、全国で進学熱が高まるのに比例して不登校も増加した。が、その後日本の経済成長が低迷期に入っても不登校の生徒達の輩出はあまり衰えてはいない。見た目の多少の減少にもかかわらず、逆の意味で増加しているようにも見える。何となく不登校」とか「明るい不登校」とか「不登校バンザイ」とかも言われる。多分に商業ベース的な響きがすることを差し引いても、「なぜなのかという思いがする。  [br]
▼いわゆる「不登校相談」の専門家と自称する人々は、元不登校の子どもまで含んで様々にいるようだ。が、そのほとんどは不登校という現象面を扱う人達で、相談と言っても対症療法的なものが中心である。心理学的側面から、カウンセリング的な観点から、自分の体験的な理解から—それぞれが今不登校真っ最中の子どもやその親御さんに「解りやすく」噛み砕いて説明して安心させていることが多い。が、それは大部分がモグラ叩き的な対症療法的なものである。
タブーでもあるのか、難しい領域になるからあえて触れないでいるのか、「どうして不登校になるの?」「なんで日本ではこんなに不登校が大問題になるの?」という、日本の教育の根幹に触れる問題には触れようとはしない。 [br]
▼そこで、教育専門家でもあまり触れたがらない日本の教育のあり方に敢えて触れてみたい。もしかすると、一向に終息しない日本の学校教育の不登校の問題もその辺にヒントが見つかるかも知れない。
1965年発行の文部省の『生徒指導の手引き』という書籍が手元にある。その中に「第2章 生徒指導の原理」という項目があり、「4 援助・指導の基盤としての人間関係」という小見出しがあり、そこに次のような文言が書かれている。 [br]

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー [br]

 援助・指導の基盤としての人間関係には、重要なものとして権力ー支配ー盲従関係、権威ー尊敬ー心服関係および出会い関係があげられる。 [br] 

(1)権力ー支配ー盲従関係 [br] 

 権力ー支配ー盲従関係は、もっぱら外からの強制的な力によるもので、指導されるものは指導者に対し恐怖心を感じ、その恐怖心をの免れるために服従する。決まりに従う行動をさせるためには、このような権力ー支配ー盲従関係も効果的であるが、前述したような人間関係では内面化が起こりにくいから、絶えず権力が生徒の眼前に提示されていることが続けられなければ、所期の成果を達成することができない。 [br] 

(2)権威ー尊敬ー心服関係 [br] 

 権威ー尊敬ー心服関係における権威は、外からの力によって与えられた権威(それは権力と呼ばれることがふさわしい。)ではなく、内的に充実した内的権威であって、そこには生徒との間の相互尊敬が存し、生徒が自発的に心服するようになることを求めているものである。このような関係にあっては、生徒はおのずから指導者との同一化を求め、指導者のようになりたいと欲し、あるいは、その教えに進んで従おうとする。このような関係においては、生徒は指導者の人格に感化されることになる。 [br] 
 権威ー尊敬ー心服関係は、幼児期の人格の生成において顕著に見られるものであり、この関係において恵まれた過去を持っている生徒の指導者は、よい基礎があるので一般に順調に進められるものである。しかし、青年期の発達的特性として、親や教師に対しては反抗的となりがちなものであるから、親や教師との関係においては、この権威ー尊敬の関係を持続させることがむずかしくなる。青年期の生徒が親や教師に対して反抗的なムードをあらわに示しても、親や教師が筋道のたった助言を与えるならば、即座にそれを認めることをしないとしても、しばらく経過したあとでは、その助言を取り入れることがしばしば見られるものである。このように親や教師との関係でも、権威ー尊敬関係は潜在的には必ずしも断絶されていず、生徒が特に尊敬を感じている教師に対しては、心から服従し、その感化に対して心を開いているものであり、また崇拝する偉人に対しては、積極的に同一化を求めているものである。したがって、偉人の講義や伝記などを媒介として指導していくならば、偉人の人格による感化が生徒に及ぼされていくことは、じゅうぶんにこれをこれを期待することができるものである。人生の目標の確立や専心追求の態度を育成するためには、このような権威ー尊敬関係が存立することが望ましい。このような関係においては、支持されたり激励されたりすることは効果的である。 [br] 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー [br]

▼引用が長くなったが、1965年発行の文部省の『生徒指導の手引き』には、上記のような文言が載っている。 実際はこの『生徒指導の手引き』のあと2度ほど改定が行われ、現在は『生徒指導提要』(「三訂版」とも言うらしいと名称も変わったようである。そこには『手引き』をベースにしながらにはそれ以降のの生徒指導に関する情報(発達障害やインターネットまで含む)が盛り込まれている。 [br]
ところで、識者に聞きたいのだが、(寡聞にして、私はこの文言が否定されたり根本的に改定されたという説明を知らない。)もしかして、今でもこの文言が生きている、効力を持っているのであろうか。(ちなみに、この文言のすぐ前には「3 賞と罰」という見出しがある。やはり、この流れで書かれている。)  [br]
日本の不登校問題は、戦後のこういう学校教育のあり方から必然的に生まれてきたものではないかと思うのだが—。 [br]

(※「教育落書き帳」に掲載)

現代の不登校現象—あなたのお考えをお聞かせください!

▼一時期、教育関係者や子どもの問題等に携わる人達の間で、「母原病」という言葉がもてはやされたことがある。1979年に精神科医の久徳重盛さんが発表した精神病の概念である。一時期、そのことを書いた書籍『母原病–母親が原因でふえる子どもの異常』(サンマーク出版・久徳重盛著)は日本で大ベストセラーとなった。 そこには「子どもの登校拒否(≒不登校)は母親の接し方に原因がある」とされた。それで多くの母親が自責の念に駆り立てられた。「不登校の多くは情緒不安の子どもに問題がある」とされた時代の産物であった。

▼しかし、当然と言えば当然ながら、それには激しい批判が噴出した。「親が子どもの病理である」という指摘は、確かに世に警鐘を鳴らす重要な問題提起ではあったが、「子育ては母親の役割」と言われた時代であったこともあり、不登校という子どもの現象を全て母親の母親の責任にしてしまったことは否めない。「父子家庭」はどうなのかという問題もあった。しかも今は「家庭は女が守るもの」ということは実態にそぐわず神話とさえなっている。では、その問題は払拭されたのかと言えば、決してそうではないようだ。

今はもう「家庭は女が守るもの」 とは誰も言わないが(かつては母親は家にいて父親が仕事に出れば家計が成り立ったが、今は男女機会均等の考えもあり一方では女性も積極的に社会に進出するようになった)、子どもの不登校の問題は一定の社会的認知は得たとは言っても依然としてあり、さらに以前ほど登校刺激が過度ではなくなったこともあり、比較的安定した精神状態で家にいることも多くなった。家人もあまり強くは不登校を問題にしなくなった。しかし、そこで新たな問題も生じるようになって来た。

▼ある識者に言わせれば、不登校が家人からあまり問題にされなくなったどころか、むしろ昼間両親が家を開けている間のヤモリ(家守り)として重宝がられるようにさえなっているのだとか。そういう形での「何となく不登校」が、「やむにやまれずの不登校」に負けず劣らず増えているのだという。そして、そういう不登校の中には長期化する場合も多いとか。周りからは何が問題なのかはよく見えないし、大きな抵抗感があるようにも見えないが、何言にも長続きせず簡単にリタイアしてしまう。

▼ただ、「今の不登校は—」と一括りにしにくいのが今の不登校の特徴の一つかも知れないとも思っている。一方には不登校で苦しむ人がいる一方、明るい不登校等と言って不登校をさほど苦にしないケースも増えている。さらにホームスクーリングル(家庭=学校)だけでなくアンスクーリング(脱・学校)という形で学校を離れるケースも増えつつある。また、スマホやタブレットなどのICT機器の進化によって学年や国を超えた学習機会も広がっている。

▼さて、そこで、ここで出来合いの答えを用意するのではなく、実際の不登校の当事者や教育関係者、スクールの運営者、関心のある方々に聞いてみたい。今、不登校をどう捉えればいいのだろうか。

そこで皆さんからいろいろなお考えをお聞かせいただきたいと思う。