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「不登校支援へのご協力のお願い」について

「不登校支援へのご協力のお願い」について

▼現政権になってからボディブローのように段々と社会全体で予算等の削減や締め付けによる影響が出始めている。教育の場合もまた例外ではない。特に子どもが不登校になった場合には、国は言うまでもなく自治体においてもほとんど実質的な教育支援はなく、しばしばいわば「教育棄民」の状態に置かれてしまう。さらに「道徳教育」の導入など退行現象さえ見られる。

▼フリースクール・ぱいでぃあも、「教育ネットワーク・ニコラ」の発足(1995年)以来、そしてNPO法人化(2004年)した後にも、いろいろな形で「教育バウチャー」の必要性を訴えてきた。
 「教育バウチャー」とはいわゆる「教育に特化したクーポン券」のことで、アメリカではブッシュ政権下の時に既に実施されている。このアイディアを日本の不登校になった子どもの家庭への経済的支援に的を絞って提案したものである。だが、幾ら教育行政に訴えても一向に道は開かれない。家庭の多くがその存在を知らないということもある。フリースクールを含め、多くの民間の教育団体が不登校の子どもたち支援よりも自団体の公的支援を求めているという矛盾もある。
 なぜそこまで「教育バウチャー」を訴えるのかと言えば、これは不登校児童生徒のいる家庭への経済的支援ということもあるが(今やその側面は緊急の最重要課題だ)、家庭の保護者にとっては「教育権」の保障であり、子どもにとっては国への「学習権」の正当な要求だからである。

▼ここで見逃せないのが、これまで減少してきていた全国の不登校数が平成25年を境に増加に転じ、この少子化の中でも年々増え続け、ついに14万人の大台に乗ってしまったことである。
 また一方では「子ども食堂」に象徴されるように「子どもの貧困」が進んでいる社会の現実もある。それは本当は子どもではなく「大人の貧困」の子どもへの影響の姿である。
 さらに、若者の間では、今の給与では「一生かかっても家も持てない」「結婚もできない」「出産の費用も子育ての費用もない」というおよそ先進国ではありえないような現実もある。
 つまり、アベノミクスの自画自賛とは裏腹に、日本の国の至る所で経済的困難な家庭が出現し、自殺事件が多発し、異常な経済格差が加速度的に広がりつつあるのだ。

▼日本全体がそういう状況であるにもかかわらず、真っ先に行うべき不登校になった子どもたちへの教育公費の投入は依然ないままである。
 その原因の一つが「学校の卒業資格が学校長の判断による」ことになっている(「学校教育法」を参照)ことにありそうだ。つまり、たとえ幾ら学校教育から遠ざかろうと学校教育が前提とされ、子どもの教育全般が学校長の判断に委ねられているのである(現実は、「不登校日数」卒業の判断基準ではないから、不登校のままでも卒業できるし、そうなっている)。
 それで子どもが不登校になったとき、子どもの心の問題を考慮するよりも、何が何でも学校に戻そうとしたり、それができない時は我が子をなじったりするような家庭内問題も起きてくる。
 だが、「経済格差=教育格差」の現実にたじろぐ親を尻目に、日本の社会ではそれは「家庭の問題」(小泉純一郎元首相の言葉)とされ、教育格差の視点から経済的支援をすることはなかった。

▼だが、子どもたちは親の経済状態を考えて不登校になるわけではない。不登校になった子どもが子どもの「貧困の現実」に直面するのは不登校になった後のことであり、しかもそれは「子どもの貧困」ではなく自分を庇護する「親の貧困」の姿なのだ。共働きがほとんどの家庭の現実となった今、親御さんが不登校となった子どもの心身のケアを行うゆとりがないばかりか、厳しい経済的現実の中で身動きの取れない状態になっている。
 だから、不登校となった子どもたちを支援し救済するためにも、そういう親御さんの経済状態を把握しなければ、その側にいる子ども自体を救うことができない。

▼だが、その前に幾つかの困難がある。その一つは「日本は寄付文化に乏しい国である」ということ。断定はしたくないがほぼ事実に近い。我利我欲に執着し、自分以外への働きかけは家族や親族規模に限定される。それが公的観念が乏しいと言われる日本人の特性である。
 心ある政治家や市民感覚に長じた人はそれを嘆くが、ほとんど事実である。敢えて自ら踏み出してまで社会貢献をしようとする意識が日本人全体に薄い。個人が思い余って自ら始めた活動も「売名行為だろう」くらいの見方しかしない。東日本大震災の時にもそういうことがあった。アメリカの資産家の中には企業活動で成功して得た資金を社会貢献に寄付することを自己のステイタスとしている人さえいるのとは極めて対象的である。

▼しかし、それに対して私はあまり悲観的には考えない。日本という国がそういう文化風土になっていないことは認めるが、その半分はそういう機会に恵まれないということにもあるのではないかと考える。日本人の社会感覚が他の先進国に比べて格段に劣っていると思いたくない。だから、今必要なのはそういう行動を可能にする機会を用意することなのだとも思う。
 今、自分が関わっているNPOの活動として「不登校支援」がある。調べれば直ぐ分かることだが、常識的に考えて当然行われているべき教育上のケア放置されている。その理不尽さを教育行政に訴えてはいるが「百年河清を俟つ」状態にあり、一向に埒が明かない。だが、今不登校の中学生でも5年もすれば18~20歳となる。子の育ちに待ったはない。その子の人生がかかっているのだ。
 そこで、志ある人々にネットで呼び掛け、その思いを行動にすること、社会活動に参加・協力してもらいたいのである。自分たちの場合はそれがNPO活動による「不登校支援」なのである。
 しかし、この「不登校支援」の活動は純粋なNPO活動であり教育ビジネスではないから、広告を打ってまで呼び掛ける意図はない。あくまでもボランティアによる浄財を期待する。

▼今まで自分たちは限られたNPO活動の中で孤軍奮闘するような形で不登校支援に関わってきた。だが、NPO活動は自前の資金による自発的な活動であり、もし経済的基盤が脆弱であればその活動は長続きしない。それで、その過程で経済的その他の理由で消えていく仲間も多かった。だから、民間のNPO活動を維持するためには、会費や寄付、助成金、補助金等による紐付きではないきれいな支援が欠かせない。
 また逆に、教育の世界には利潤を追求するビジネスの一類型の観点から参入した団体もある。教育ビジネスも資本主義社会での正当な企業活動であるから、そのこと自体に問題はないが、その場合にはほとんどが高校卒業資格付与ビジネスが核となる活動であり、支払いに支障のない比較的恵まれた家庭がその対象となる。

▼だから、そういう企業団体の場合には、不登校の子どもたちに何らの公的支援のないことの理不尽さを行政に訴えることよりは、逆にその窮状を巧みに利用したビジネスを行っているとも私たちには見える。だが、一般の家庭ではNPO活動での不登校の支援活動も、そういう企業による教育ビジネス活動も同じように見えてしまうようだ。「どこもみな同じ」と。不登校の子どものいる家庭からも多分にそう思われる…いかがなものか…。そういう思いがずっと付き纏う。
 そういう中で、税金を投入した行政の活動とは完全に独立したNPO活動の本質を理解し、子どもの側に立つ不登校支援の持続を願い、不登校の子どもたちの自立を応援し、21世紀に相応しい学びの方法の確立を模索する…それがこの「不登校支援への参加・協力の呼びかけ」のあらましである。

▼個々の詳細についてはおいおい別掲で述べていこうと思うが、今までとは比較にならぬ技術革新をはじめ様々な変革の波を乗り越えていかなければならない地点に私達は来ている。教育もまたその一つだ。
 そこでは「学校とは何か?」「教育とは何か?」「学校教育だけが学びか?」「日本の学校教育はグローバルな世界でも通用するのか?」など様々なことが考えられる。
 もはや単なる不登校の問題では収まりそうにないが、この活動への参加・協力がそういうことを考える起爆剤となればとも考えている。
 ぜひ皆さん方のご協力・ご参加、忌憚のない声を寄せていただきたいと思っている。

※興味関心を持たれた方は、ぜひ「教育ネットワーク・二コラ」のサイト(「いきいき二コラ」)のページの「お願い文」にお目通しされ、ご協力・ご参加をしていただけたならとても嬉しいことです。併せて「二コラの「定款」もご覧ください。
※2019年2月21日初投稿。2月22日、2月27日一部修正。

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「不登校支援」団体等に対する調査依頼について思うこと

▼現在、不登校支援を行う全国のフリースクールの諸団体がどんな状況に置かれているかを知ってか知らずか、引きも切らず(と言えば大袈裟か?)様々な調査機関や大学の研究室、中には大学院生の研究調査や大学生の卒論のための協力依頼等の文書が郵送で届く。
 大抵「締め切りは〇〇」とある。文科省下の研究機関が公費を投入して行っている調査も目に付く。悪意に捉えれば、「ホラ、我が研究機関がわざわざ税金で行う有り難い調査依頼だから、心して記入し提出するのだぞ」と言わんばかりのバイアスのかかった臭いを感じ取ることもある。

▼だが、幾ら誠意をもって記入したところで、不登校支援に対する何らかの具体的な反応があるわけではない。その上、現場の人間からすると「何のための調査研究なの?」と首を傾けたくなるような方向違いの質問事項がないわけでもない。つまり、不登校になった本人だけでなく現場で不登校支援に携わっている人間の視点からしても問題の多い不登校理解だったりするのだ。
 今や不登校に対する社会的認知(不登校支援ではない)はかなり広まり、調査研究機関だけでなく、臨床心理士によるカウンセリング的な側面から、あるいは心療内科や精神科という医学的側面からの考察も盛んになっているが、不登校に対する基本的認識は以前とさほど変わっていないように見えなくもない。

▼1995年、私たちは『二コラ』という不登校の子どものいる現場から問題を考えることをモットーとする月刊教育雑誌を立ち上げ(「日本で初めての不登校専門誌」という評価を頂いた)た。そして、その雑誌を媒体として、関東という地から民間団体(当初から10の団体が集まった)による不登校支援の全面的な展開を始めたのである。秋と春の年2回、東京と埼玉での不登校支援のための相談会や実践報告会も開いてきた。
 その雑誌に掲載された「埼玉教育センターの取材記事」でも明らかなになっていることだが、不登校の子どもたちは当時すでに8万人の大台になっていた。だが、不登校の子どもたちの多くは「情緒障害」等の問題を抱えており、学校側自体にはほとんど問題はないと考えられていた。「不登校になる子が問題なのだ」と。
 確かに長期間学校を休めば、それまで成績の良かった子でも劇落ちする。それが証拠と言うわけだ。だが、それは学校側の印象論に過ぎない。

▼子どもが通っていた学校やクラスがそうであるから、大学や教員養成のための教育学部などでは、まだ研究の端緒に付いたばかりで、まともな研究論文もまだない状態だった。そういう基本研究のために私たちが子どもたちと接する中で積み上げてきた元データを無償で貸し出したりもした。そういう過程を経て今の大学等での研究もあるとも言える。
 データ使用の問い合わせがあった幾つもの研究機関には基本的に出展を明らかにさえすれば著作権フリーということで自由な使用許可を与えた。だが、今でもネット検索してみるだけでたぶん無断による二次三次等の使用ではないかというものも見られるが、原則固いことは言わない。もう「過去の共有財産」でいいだろうと。

▼問題は全く別のところにある。地道な不登校の研究調査が進み、それが不登校の子どもたちの具体的支援に繋がれば何も言うことはない。だが、実際はどうか。私たちは営利企業的側面から考えて最もビジネスになる高校生支援事業ではなく、火中の栗を拾うように敢えて実益のあがらない義務教育段階の子どもたち支援の事業に身を投じた.。それは「不登校」は「不“登校”」であり、「近代学校教育からの逃走」という側面、教育問題の「炭鉱のカナリヤ」的色彩を色濃く持っていたからである。「不登校」は近代学校教育の危機の体現に他ならない。しかも「義務教育は無償」が世界の趨勢でありながら、日本の不登校の子どもたちは単に学校に行かないということだけで、完全に「教育棄民」の状態に放置されてしまうのだ。

▼私たちは現在、埼玉県教育委員会と協働する形で「保護者や教員のための不登校セミナー」を夏と秋の年2回開催しているが、そこに登場する講師の方々は「子どもたちは生きるためのぎりぎりの選択として不登校を選択している」とか「不登校の子どもたちは目に見えない無数の傷を負っている」とか、その職業的立場上ぎりぎりの提示を行っているのが見える。
 残念ながら、文科省関連の調査研究の依頼にはそういうものが見えない。多忙な時間を割いて対応はしているが、日々現場で不登校の子どもたちと接する者として、そこに不登校の子どもたちの希望を託すわけにはいかないのだ。

▼そういえば、ある経験豊かな精神科医の書物に、大人の精神科の患者に子どものADHD等の発達障害の薬を服用させたところ劇的な効果があったという研究があった。もしかすると、精神病の患者というのはそういう発達障害の先の姿かも知れないのだ。「不登校」と定義され(不登校は病気じゃないというが…)、心療内科や精神科で「発達障害」と病名を付けられた人たちのうちで、どのくらいが「引きこもり」等に移行しているのだろうか?
 「もしかして…」とその医師は言う「精神病という病気はないのかも知れない」と。

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