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校則のない公立中学校

「校則のない中学校」として世田谷区立桜ヶ丘中学校が話題だ。この中学には中学生に規律を体得させる当たり前の校則がないことで、逆に様々な事件もまた起きないのだと。

フリースクールで不登校の子どもたちと接して来た自分には至極当たり前のことだが、管理を旨とする学校では意外な光景らしい。
子どもを信用せず、独立した存在=魂として遇せずに管理することで、逆に不信と不信の蓄積する場が学校となることを教師も保護者も知らない。
今後おいおいそういう子どもたちの姿を紹介することで、子どもの育ちや学びの問題を考えて行きたい。
いや、できたら今後日本の教育が進むべき方向性をも提示して行きたいと思う。
※(蛇足)
この紹介記事でもチラと触れていたが、不登校問題だけでなく、「子どもの学びや育ちの問題は、だいたい15歳まで、つまり義務教育の修了する中学時代までが勝負だ」と思っている。不登校は高校や大学までも続くこともあるが、そこまで行けば矯正はかなり難しくなる。もう幹が固まってきているのだ。

皆さんのご意見や質問を頂ければ有難く思う。

「校則のない中学校」

不登校セミナーの相談ブースで語ったこと

▼10月13日(土)の「保護者や教員のための不登校セミナー」第2部の午後のフリースクール担当の教育相談(不登校相談)ブースのある6Fのフロアーに相談に来られた保護者の数は昨年度よりは明らかに多かった。保護者の間でも徒に子どもに学校復帰を促すよりは、それ以外の選択肢も検討してみよう…そういう静かな変化が起きているのかなという印象も持った(1Fの教育委員会のブースへの相談者の様子を聞かなければ断定的なことは言えないが)。

▼相談に訪れたのは、ほとんどはその親御さん。母親だけでなく夫婦で来られる割合が高いのは近年の特徴だ。不登校になって苦しんでいるのは当人には違いないが、時として保護者の方が当人以上に戸惑い動揺している
 保護者として自分の子育ての責任を問われていると思い込む人は多い。だから、変な話だが、WISC-Ⅳ等の検査で子どものIQの数値が分かったり、生得的な発達障害らしいデータが出されたりすると、必ずしも自分の子育てのせいではないのだと逆に安心される方も中にはいる。
 これだけを見ても、不登校となった子どもの話だけに焦点を合わせればいいという単純な話ではないし、従来的な子育て論で一方的に親の育児法を俎上に載せればいいということにもならない。

▼そこで、個別な事例についてはそれに即応した応答や示唆を行ったが、全体的な「親の気付き、大人の気付き」に関連することにおいては、ある一定の物の見方・考え方を提示した。
 一つは、義務教育制度が日本だけでなくどの国においても無償で行われていることの意味についての説明。その義務教育によってその国を再生産させる人づくりが行われていること。だから、「義務教育は学問以前の人としての基礎基本、人づくりの土台づくりの営み」であること。将来その人がより研鑽を積み、高い建物を建てることもそれによって可能になると。
 なのに実際には、先進国の仲間と言いながら、日本の場合、不登校となって学校を離れた子どもには国の教育公費の一切の支援はなくなり、教育棄民の状態に放置され、経済難民の予備軍さえ生み出す状態にあると

▼具体的に、すぐできる方法として提示したのは、既にこのブログでも紹介している二つのもの。「究極の不登校、アインシュタイン」「人生に迷った時の言葉」の二つ。
 その意味については、大体このように説明した。
 ・不登校になれば、自分を不登校に追い込んだ原因や環境、言い換えれば「風景」を変えたいと思う。でも、幾らそう願っても自分を取り巻く風景は変わらない。では、どうするか?相手を変えようとするのではなく自分で動くことだ。自分を取り巻く風景を変えたければ自ら行動することだ。そうすれば、あれほど変わることを願っても変わらなかった風景は嘘のようにあっけなく変わる。「猫に鈴を!」と願っても誰も鈴をつける行動をしなければ事態は変わらない。自転車に乗りたければ、自らトレーニングして体得することだと。
 ・しかし、物には幾ら自分が願っても、自分が行動しても容易に変わらぬ場合もある。そこに厳然と「あるという事実」は変えようがない。事実は事実だ。しかし、物には見方、捉え方というものがある。たとえば、このペットボトル。水が半分入っている。これをどう見るか。「なんだ、半分しか入ってないじゃないか」と見るか「すげえ、まだ半分も水が残っている」」と見るか。水が半分という事実は変わらないが、見方を変えることで今後の姿勢、向き合い方が変わって来る。そして、物事は自分の思ったように動いていくもの
 そのために考えるヒントとして、来訪者にはお渡しした。

▼どんな相談にのろうと、こちらは相談者が考え行動するための手掛かりしか提示できない。行動に誘うことはできるが「行動するのは自分自身」である。これは、どのような場合でも同じこと。不登校の子どもについても言えること。親御さんはその子の代わりになることはできないし、そうすることが本人のためになることは何もないのだと。その子の出来る度合いに応じてその子に行動を促すしかないのだと。
 たとえば、学校を離れてフリースクールにやって来る子の中に、「指示待ち人間」がやたらと多い。学校でつくられた「いい生徒像」だろうか。そして、極端に「失敗を恐れる」。こういう子どもほど学校の中で「期待される人間像」を演じ、逆に自分の中身は空になるのかもしれない。
 ぱいでぃあでは、そういう子ども像を一つずつ壊すことから始める。「“トイレに行くな!”と言えばどうする?」と問い、「少なくとも生理的行動は自分で判断しその旨告げて自分で行動すればいい」とか「どんどん失敗しろ、失敗を恐れるな、失敗から学べ」とけしかける。一方で薄皮一枚一枚剥がすような慎重な対応もまた欠かせない。そこはその子の不登校の事情によってまるで違ってくる。単に「臨床心理士の資格を取りました」レベルで済む事柄ではない。
 実際に、そういう子が通い始めた場合には、「一人ひとり顔も違い、声も違い、背丈も違うように、外側からは見えない心もまた違う」ことを十分に認識しながら、こちらもその子の個性と真摯に真っさらの状態で向き合うことから始めることになる。そんなことを自分の場合は話した。

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「人生に迷った時の言葉」から

2018年10月13日(土)に秋の「保護者や教員のための不登校セミナー」(第2回)(埼玉県教育委員会主催、官民連携会議協賛)が開催される。
 第1部の埼玉大学教授・馬場久志氏の講演に続いて、第2部では、各ブースで個別の相談会が予定されている。県教委、サポート校等の高校部門、フリースクールの小中の義務教育部門、親の会部門等である。

▼学校離れた子どもたちに「学業のケア」も必要だが、それ以前に「心のケア」が必要だ。その安定や平穏を取り戻して初めて自分の目的とするものに取り組むことができる。
 そういう子どもたちに、先ずは こんな動画を見てもらいたい。気持ちの持ち方、気付きや発見というものが意外な効果を発揮する。自分を見つめ直すよすがになれば幸いだ。

「人生に迷った時の言葉」

子どもたちを福島にボランティアに連れて行くということ

子どもたちを福島にボランティアに連れて行くということ

▼福島第一原発事故から5年の歳月が流れて
福島第一原発事故から既に5年の歳月が流れた。その引き金ともなった東日本大震災による未曾有のに被害については誰一人同情せぬものはないし支援に駆けつけた人も多い。しかし、東電の福島第一の原発事故については二の足を踏む人が多い。チェルノブイリ原発事故級(それを上回るとも)と言われる原発事故による放射能被害を心配するからである。

▼放射能被害に対する様々な受け止め方
原発事故から5年、その事実は変わらないがその受け止め方は様々だ。この間の子どもたちの甲状腺ガンの発症率の上昇も無視できない。家族ともども住み慣れた地域を離れた人達も多い。一方では未だに仮設住宅住まいの人達もいる。再び元の状態に戻ることは不可能かもしれないとも囁かれる。全く想定外(?)の原発事故によって、生活、文化、社会の全てが一瞬にして崩れ去ったかのようである。

▼ほとんどは「風評被害」で安心安全という考え方
だが、一方でそれらはほとんど「風評被害」であり、今回の事故はそんなに恐れる必要はないのだという意見も根強い。全てではないが政府が「安心・安全」と言っているではないかという声もある。そこには産業があり、生活があるのだ。いたずらに警戒心を煽る人達が絶えないが、農業も漁業も、危険なものを取り除けば大丈夫なのだと。多くの地域では積極的に除染が行われ、現に地域の子どもたちは毎日元気に学校に通って勉強しているではないかと。県外の人達からも「食べて応援」でたくさんの支援の声もある。何を怖がるのかと。

▼福島の地に子どもたちをボランティアにやること
さて、そういう中、福島の子どもたちを励ますために、子どもたちを他県に迎え入れる活動もある。福島に出向いて行う文化的な慰問の活動もある。逆に、大人だけでなく子どもたちにも、春や夏の休暇を利用してボランティアの活動を行うところもある。小中学校では修学旅行先に福島県を選ぶ学校さえある。確かに、地域の繋がりが希薄になり、支援を求めるたくさんの人達がいる以上、そこに出向いて無償の善意を施すことは、行う方にも受ける方にも意義のある活動に違いない。

▼子どもたちを福島に連れて行く支援団体の思い
ともすると我利我利の自己中にハマりやすい今の学校教育において、それは一つの大事な視点かも知れない。特に、学校を放れた不登校の子どもたちのために、コミュニケーション能力の向上のために役立てよう、と考えるところが出てきてもおかしくはない。事実、毎年のようにそういうフリースクール等の子どもの支援団体などが、小旅行を兼ねて数日現地に趣き、ボランティア活動を行うところが多くなった昨今である。
きっとそういう団体は主催者がそのような活動に前向きの気持ちがあり、そこに子どもを預けている親御さんたちもそれに賛同する方たちなのだろうと推察している。

▼子どもたちを未知の危険のある福島にはやらない
しかし、自分もフリースクールを主催しているが、そういう活動には自分自身でも躊躇するし、お預かりしているお子さんや親御さんにもそれを強要することはできないと思っている。「政府が安全と言っているのだから…」とか「福島の子どもたちもそこで生活している。数日のことなのだから…」という考えで不登校の子どもたちの福島でのボランティア体験に前向きな人達もいるだろう。それでも、「自分たちのフリースクールは福島にボランティアに行くことを想定していない」と言うつもりだし、それを聞いて安心できる人達に来てほしいと思っている。

▼ボランティアの大事さと放射能の特殊性
「本はどこにでも開いている」し、ボランティア活動は大事だと思うが、何も敢えて危険な福島を舞台に選ばなくてもいいと思っている。自分たちは、子どもたちと関われる短い期間のうちに子どもたちに自信を取り戻し立ち直ってもらいたいと思っているが、放射能の影響に関しては未知の部分が多く、なるべくならば被害を最小限に留める形で子どもたちを応援したい。自分たちの手を放れた後のことについては、残念ながら「放射能に関してだけは」責任が持てないのである。

▼未知のことだからこそ命の危険を恐れる
それが本当に風評被害であれば、誰も仕事や生活を投げ出してまでも福島から逃れまい。「原発さえなければ!」と死ぬ人もなかっただろう。未知だからと根拠もなく恐れるのは愚かである。だが、未知だからと根拠もなく安全と過信するのもまた愚かである。人の命は代わることができない。自分の命を人任せにすることもできない。それは本当に風評被害なのか、確かなデータに基づく確信なのか、自分の納得の行く形で見極めたい。

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